さくらもり


 それはある夏休みの事。年に一度の学園祭の為に、ほとんどの生徒達が暑い中登校している。
「高原ぁ〜」
「なんだ、鳴海」
 日の当たる小さめの教室で、金属製のデスクに積まれた書類に目を通しながら、鳴海
と呼ばれた美女は気の抜けた声で少女を呼んだ。
「生徒会報に載せる原稿を各生徒から受け取って来て欲しいんだけど」
「……なにゆえ私が」
「高原は書記でしょ、暇でしょ。良いじゃないか。行って来てよ」
 ふふふ、と美女はすらりとした足を組替えて言う。対してデスクに腰を下ろしている
高原という少女は仏頂面だ。
 身長149センチ。「占い師」とも呼ばれる生徒会書記、高原真南は背が小さい。
その上とても可愛い声なので、実年齢より十歳は幼く見られてしまう。
 そして身長189センチ。すらりとした美女に見える鳴海道治は男だが、女子の制服
を着こなす姿は、どう見ても女子生徒にしか見えない。この格好で学校内を闊歩してい
る為、学校側でもこれが生徒会長だとは言えず、やむなく副会長を別名で兼任したとい
う逸話を持つ、実に変わった青年だ。
 いや、彼こそ何故かキャラの濃い生徒ばかり集まる、この私立桜高等学校生徒会長と
してふさわしいのかもしれない。
 鳴海は膝の上に丸くなっている高原の猫、封羽の背を撫ぜながら、真実味の無いセリフを言う。
「ボクは会長として、激務をこなさなきゃいけないのさ。あ、どうせだったら姉御を連れて行っても良いよ。
つーか引っ張って行け。秋桜祭の準備で登校しているんだろうし」
「分かった。確か皐月は……」
「B組だよ。ほら、さっさと行って来て!」
 高原は、しぶしぶデスクからぴょんと飛び降りて教室を出た。

 鳴海の読み通り、姉御こと草薙皐月は教室で体育祭に使うポンポンを作っていた。
彼女はテープを細かく裂く作業をとても活き活きとやっている。
 その様子をドアからのぞき、高原は草薙を呼んだ。
「皐月、生徒会にも貢献せよ」
「あれ、真南。あんたどうしたの?」
 草薙はやっと気付いたらしく、高原の方を向く。
「生徒会報の原稿を集めるよう、鳴海会長から指示された。会長からの伝言。『姉御も手伝ってな』。以上」
「……あいつ、後でしばく」
「真南。今日は鳴海会長は普通の格好なんですか?」
 『姉御』、という部分に反応して拳を固めた草薙の横に、凛とした少女が立った。
身長差で二人は高原を見下ろすようになっている。高原は居心地悪そうに少し顔をしかめた。
それに気付いた少女と草薙が並んでその場にかがみ、高原もその場に座る。
「梢……。違う、今日は鳴海副会長。つまり、女装の『満春』だ」
「またあの人は……」
 少女は顔を手で覆って溜息をついた。二ノ宮梢は風紀委員長を務め、主に三人の生徒
を指導する事に執念を燃やしている。
 一人は件の鳴海会長。もう一人は喫煙常習犯、丘里薫。そしてサボり魔、九条篠。
 三人とも手強い相手である。
「で。その副会長はあたしらに原稿を集めて来い、と言ったわけだ」
「その通り」
 こくり、と頷いた高原に、草薙はにやりと笑った。
「だったらさ、手分けしてやった方が早くない? あ、暇なら梢も手伝ってよ」
 二ノ宮は申し訳なさそうに立ち上がる。二人もつられて立ち上がった。
「ごめんなさい、私は九条篠を探し出して、秋桜祭の準備を手伝わせないと……」
「あ、そっか。ま、頑張ってね」
「ありがとう。あなた方も」
 去って行く二ノ宮の後ろ姿を見送って、高原は口を開く。
「さ、我らも仕事だ」
「……梢の場合、ありゃ逢瀬じゃないかなぁ、九条との」
「……」
 草薙の呟きに、高原は小さく同意した。

 毎年この時期の『学園祭の抱負について』という会報は、全クラス、ランダムで選ば
れた代表生徒へ原稿を渡すという迷惑な人選が取られている。これが以外と好評で、い
つもの会報は読まないという人でも、この号だけは読むというアンケート結果が出ている。
 生徒会の二人は担当を決め、地道に原稿を集める事にした。草薙は三年のA組からE組
までと一年生、高原は三年のF組からI組までと二年生をまわる。
「……海老名さんと青木さん、いらっしゃる?」
 高原は最後に二年D組の教室を訪れていた。
「高原先輩、何のご用ですか?」
 教室に残っていた青木佳也子がついっ、と少女の前に立つ。
「青木さん、ちょうど良い。生徒会報の原稿を取りに来たのだが、海老名さんが何処に
いるか知らぬか?」
「いいえ。美術室にはいないんですか?」
「探したけれど見つからなくて」
 青木は自分の原稿を高原に渡しながら、ふと思い出したように言う。
「この頃E組の烏丸君と一緒にいるから、もしかしたら彼と一緒なのかもしれませんよ」
「そう。ありがとう、お邪魔した」
 高原はふぅ、と息をついて扉を閉めた。
 ならばやはり、あの場所を当たった方が良い、か。

「どうした? 真南」
 合流した草薙と一緒に生徒会室に向かいながら、高原はむぅと考え込む。
「実はな、二年D組の海老名千乃さんがいなかったのだが、それがE組の烏丸君と一緒らしいのだ」
「え? 別に良いじゃん。何か問題があるわけ?」
「それがあるのだ」
 一週間前の事。裏庭で占星術理論についての本を読んでいると、人の話し声がした。
いつもなら誰もいないはずなのに、元気な男子生徒の声がする。
「だからさ、あの場所ならきっと裏の森から入れると思うんだよね。俺もさ、見れない
けど触って見たいし、海老名さんはもっと近くから見れるだろ? 良いと思うんだけどな」
 好奇心に駆られ、木陰からそっとのぞいてみると、そこにいたのはこの学校で有名な二人。
視覚を失った烏丸鈴鹿と、言葉を失った海老名千乃だった。
 どうしてあの二人? 烏丸はいつも男子生徒に囲まれているのに。
 海老名は烏丸の提案に少し逡巡した後、彼の手の平に指を走らせる。
「『ルート』? 大丈夫、あの辺に住んでた事あるやつに聞いておいたから。紙に書い
てくれるって。海老名さんが俺を連れてってくれるなら、それを預けるから。な、あの
美術館の休館日、いつだか分かるか?」
 高原はこの近くにある美術館を思い浮かべた。近所にあって、烏丸も辿り着けるよう
な美術館……桜美術館?
 高原は昔、あの美術館の裏森で天体観測をした事があった。中は暗く、苔に覆われた
地面は良く滑る。あんな場所を二人だけで行こうとするなんて無謀だ。
「ん、じゃあ今度の月曜日だな。その日は文化祭の用意がある日だし。昼に校門前に集合!
 って事で。あ、でも春樹に見つかったりしたらやばいな。また何か言われるし。
いっそ、美術館の前にするか。大丈夫、あそこまでなら道覚えてるし点字ブロックあるから。
やーあれって便利だよな!」
 どう見てもテンション三割増な烏丸の声を聞きながら、高原はそっとその場所から抜け出した。
来週の月曜日。何としても、止めてやらねばならないと考えつつ。
「つまりな、今日がその計画の日なのだ」
「それって、すごく危ないんじゃ……」
 高原は神妙に頷き、草薙をひたと見つめた。
「野暮だとは思うが、このままでは仕事も終わらぬ。最終手段に出る」

 海老名の下駄箱を探し、罪悪感を覚えながらも中を見る。上履きだけがきちんと揃え
て入っており、外履きは無くなっていた。
「海老名は今日登校しているんだよね?」
 下駄箱のふたをきちんと閉め、草薙は高原に訊く。
「三十分程前に昼休みになり、昼食を食べてくると言って出たらしい」
 その場を離れ、高原は靴を履き替える。急用ではないが、もし自分が聞いてしまった
計画が実行されていたらと思うと、自然に気持ちが焦り出すのだった。
「ねぇ、真南。その美術館って桜美術館とは限らないんじゃない?」
「心配無用。ちゃんと裏付けはしてある。烏丸君の友達に、それとなく訊いておいたか
ら。彼にとって、桜美術館はとても思い出深き所らしい。なんでも、件の彼女と初対面
した場所だとか」
「なるほど」
 二人は比較的美術館に近い西門から、美術館に向かって走り出す。
「間に合えば良いのだが」
「ほんとに。あたしも午後の作業に遅れたくないな」
 いまいち緊張感がないのは高原の幼い声ゆえか、性格上の理由からか。

 そして雨が降って来た。


 海老名は迷っていた。地図の通り歩き、森の中までは来たものの、雨で地面が滑りや
すくなっている。右手にはしっかりと烏丸の手を握り、冷たい空気の中そこだけが暖かかった。
 前方にはうっすらと建物らしきものが見える。もう少しで辿り着くかもしれない。で
も、辿り着けないかもしれない。
 いいようの無い不安に襲われながらも、一歩一歩慎重に歩く。
「!」
 濡れた斜面に滑って転びそうになったが、烏丸が踏み止まったおかげで体勢を立て直す事が出来た。
 怖い。暗い。寒い。
 海老名はくじけそうになっていた。でももう、帰り道すら分からなくなっている。このまま進むしかない。
「海老名さん! 烏丸君!」
 そんな時。後ろから声が聞こえた。 小さな少女が二人を見つけ、大声を上げたのだ。
「え、高原先輩?!」
 烏丸は海老名を支えながら振り返る。高原は身軽に二人の傍まで降りて行き、海老名の手を取った。
「ここからじゃ危ないから。一旦戻るべし」
「ちょ、先輩?」
「いいからついてくる! ……海老名の体が熱くなっている。風邪かもしれぬ」
 無理矢理烏丸に海老名を背負わせ、暗い森の中を高原は慎重に歩いていく。この森を
抜けて美術館へ辿り着けば、草薙が待っていてくれている。合流すれば何とかなるだろう。
 そう説明され、烏丸はそっと海老名の腕に触れた。熱い。海老名が少し頭を動かす。
髪がうなじを撫でた。その感覚にどきりとしつつも、彼は高原の小さな手に導かれて前進していく。
「…………」
 耳元で海老名が荒い息をしているのが分かる。
「先輩!」
 声をあげると、高原は手をぎゅっと握る事で応えた。
「君には分からぬだろうが、今雨が降っている。森の中までは降ってこないが、空気が
湿って歩き難くなっているのだ。海老名さんには我慢してもらうしかない」
 順調な高原の歩幅に合わせて歩き続ける。それは永遠にも思えた。
 目が見えない。何も聞こえない。何も。
 雨の音が遠くで響くだけで。
 何故だか無性に怖くなって、烏丸はずっと疑問に思っていた事を高原に問い掛けた。
「せ、先輩、どうしてあんな所へ……」
 高原はきゅ、と口を結んでから答える。
「……悪かった。二人が話しているのを聞いてしまった。あの場所は危険だから、
警告しようと思って」
「そう、ですか……」
「いや、他には聞いていた者はいないぞ! あの場所は私が良く行くだけで、誰も来な
い場所なのだ。海老名さんには会ったりしたが、他には誰も!」
 一生懸命言う様子が声から伝わってきて、烏丸はくすりと笑ってしまった。
「有難うございます、先輩。助かりました」
「……やっと森も抜けられそうだ。そうしたら館長に雨宿りさせてもらおう」
「え、館長って?」
 高原はにや、と笑い、ぐったりとしている海老名の目を見る。
「こう見えて私にはコネがあるんだ」
 固まっていた海老名の顔が少しほころび、三人は森を出た。

 ビニール傘をさして美術館の前で待っていた草薙は、三人を見とめてこちらへ駆け寄って来る。
「真南! ……どうしたの、海老名」
「熱が出ている。大方、風邪でもひいていたのだろう。悪化したみたいだ。とにかく体を温めないと」
 高原は烏丸と海老名を草薙に預け、美術館の横に建っている大きな洋館のインターホンのボタンを押した。
「叔父様。ご在宅ですか?」
「……真南か?」
 男性の声がインターホンから応える。
「はい。お休み中申し訳ないのですが、雨宿りをさせてもらえないでしょうか? 
後輩が雨に濡れて熱を出してしまって」
「分かった」
 黒い門が自動で開き、高原の叔父、鳴海隆秋は言った。
「連れておいで。用意しておこう」
「ありがとうございます」
 ほんの少し顔を緩めて、高原は草薙が待つ場所へ走る。
「どうだった?」
「屋敷に向かえてくださるそうだ」
 そう言うと、烏丸はほっとした様子で海老名を背負い直した。叔父と交渉していた間に、
草薙がいろいろと説明していたらしい。
「あの不気味な洋館が先輩の叔父さんの家なんですか?」
 洋館の雰囲気を感じ取っていたらしい烏丸へ、すたすたと歩きながら高原が応える。
「そう。私の母方の叔父で、生徒会長の父方の叔父にあたる」
「へぇ……ってあの、先輩は会長の従妹なんですか?!」
「あれ、知らなかった?」
 珍しい、と草薙は烏丸の顔を見た。高原は相変わらず前を向いて動かない。
「結構有名だよ。ね、真南」
「まぁ。不本意だが致し方ない」
 門の中へ四人が入ると、門は自然に閉まっていった。飴色のノッカーを叩くと、
高原の叔父が出て来る。
「やぁ、初めましてのお客さんが多いね。そちらの青年は真南の恋ぶっ……」
 挨拶の最後が変に途切れて腹を押さえたが、高原は気にもせず叩き込んだ拳を開いた。
「ヘンな言葉が聞こえたが、気にしなくて良い。さ、どうぞ。海老名さんは奥の和室に運ぼう」
 靴を綺麗に揃え、しずしずと奥へ進む高原の後ろ姿を見ながら、草薙は苦笑する。
「じゃ、お邪魔します」
 話の見えない烏丸は、不思議そうに首を傾げた。

 海老名の風邪は、思っていたよりも悪化してはいないようだ。医師免許を持っている
高原の叔父の見立てだ。隆秋は頼りない叔父だが、医学や美術などの方面だけは信用で
きると高原は思っている。
「暖かくして寝ていれば大丈夫だよ。真南、海老名さんの家は何処だか知っているかい? 
送って行ってあげよう」
「生徒名簿に書いてあったから、持って来る。……烏丸と草薙は帰ったほうが良いな。
ついでに私達も学校に送ってはくれまいか?」
 高原は隆秋の方を向いて訊いた。
「もちろん大丈夫だよ。そういえば、もうお昼だけれど皆、お腹は空いてないかい?」
 にこにこと笑いながら、何故か酒瓶を出してくる隆秋に草薙は無難な応えをする。
「御気遣い有難うございます。あたしは大丈夫です」
「俺も。昼食は学校に置いてあるので」
 烏丸もぷうんと香る日本酒の匂いに苦笑いした。
「そうか。じゃ、送って行こうかな」
「飲酒運転などするなよ」
 高原が呆れて言うと、
「飲もうとしたら君達が来たんじゃないか」
と隆秋はむくれる。
「皆には海老名が早退したって伝えよう」
 そう言って立ち上がり、真南は部屋を出て行く。草薙も彼女の後を歩いて、ふすまを
ぱたりと閉めた。
「これでまぁ、一件落着ってトコかな」
 草薙がふすまの向こうを見やって言う。
「そうだな。後の事は叔父貴に任せれば大丈夫だ」
 マイペースに高原は廊下に座り込んだ。
「腐っても医者で芸術家だからな。メンタル部分にもしっかり対応してくれるだろう」

「あ……あの」
「なんだい?」
 烏丸は眼をぐるぐると回して隆秋の場所を探す。
「ああ、別にこちらを向かなくても良いよ。海老名さんの枕を換えているだけだから」
「そ、そうですか。実はですね、ひとつお願いがあって……」
「ほう、お願い?」
 先ほど姪から根回しされている事などおくびにも出さず、隆秋は話を促した。
「はい。美術館の壁画……タイルで描かれた桜の絵を、間近で見せてもらえないでしょうか。
どうしても男子トイレの小窓からしか見れないらしくて……彼女にも、見せてあげたいんです」
「んー、なるほど。あの場所は森に面しているからね。でも、抜け道があるんだよ」
「何処ですか?!」
 勢い込んで問う青年に、隆秋はにやりと笑う。
「喜んで連れて行ってあげよう。解説付きでね」


 次の日。雨は上がり、穏やかな蝉の音が耳に懐かしく聞こえる。
「高原ー。封羽貸しといてよ。膝に乗ってると気持ち良いから」
 鳴海は今日も山積みになった書類を前に、コーヒーを飲む。
「ダメ。それよりダンスパーティーの段取りとか、余興とか、決めろ。後がつかえる」
「そんな冷たい事言わないで、ね?」
 黒猫を抱いて椅子に座った高原は、黒猫の背中を撫でながら言った。
「誰がキャンプファイヤーだかミス・桜高とか提案した? おかげで議会がどれだけ長引き、
用意が遅れたと思って」
「はーい、やるよ。やれば良いんでしょ」
 気だるげにウイッグをかきあげ、多忙なる生徒会長は仕事を再開する。
「ところで、海老名さんの原稿は?」
「今日届けてもらう事になっている」
 とんとん。
 ちょうど控えめなノックがして、鳴海は「どうぞ」と、中性的な声を出した。きぃ、
とドアが開けられる。はたして、細めのシルエットは海老名千乃だった。
「あ、海老名さん。おはよう」
 鳴海が微笑んで言うと、海老名はぺこりと頭を下げた。そして紙の束を彼に差し出す。
「ご苦労様」
 鳴海が受け取ると、海老名はもう一度頭を下げて部屋を出ていった。鳴海は高原にち
らりと視線を投げかける。首を傾げた高原は、自身と同じような笑い方をする従兄を見た。
「いいね、青春って」
「私に話を振るな。それよりも、会報の印刷が間に合うように、自分の原稿を仕上げろ」
「はいはい」
 窓から見える桜の木は、まだ青々と葉を茂らせている。あの葉が黄色に変わったら、
お祭騒ぎの始まりだ。
「さーて、頑張るとするか」
 うーん、と背伸びをして、鳴海は優雅にペンを取った。

「……」
 海老名はふぅ、と息をつく。もしも声が出せたとしても、何も言えなかったに違いない。
 目の前には、あのタイルの桜が咲いていた。
「これはね、私の親友の作なんだ。無名ではあったけれど、とても良いものを作るやつだった」
 海老名の横に立つ高原の叔父、隆秋はぽつりと呟く。
「ある日、彼は沢山のタイルを抱えてやって来た。私が建設した美術館に、タイルを飾
るのだと言って。細かい欠片は無駄無く桜を描いていった。花びらが画面に散り、狂っ
たように咲く桜。それなのに、これだけ純粋な桜なのは、彼が桜を愛していたからだろうか……」
 烏丸はそっと手を伸ばしてタイルに触れた。ひんやりと冷たいタイルは、昨日の雨で濡れている。
烏丸の手を雫がつたって落ちて行った。小さなタイルが埋め込まれているのに、ごつご
つというよりも、つるつるとした感触が手のひらに残る。
 まるで雨に濡れた桜の花弁だ。
「烏丸君に絵を見せて欲しいと言われた時にはとてもびっくりしたよ。海老名さんのお
父さんにも、頼まれた事があったから」
 隆秋の言葉に、海老名は目を見開く。
「あれは嬉しかったよ。多分君が生まれてすぐの頃だったんじゃないかな。小さな赤ち
ゃんを乗せた乳母車を引いて、若い夫婦が訪ねて来たんだ。あの頃はまだ、この場所へ
の通り道も分かりやすかったから、私の屋敷の後ろを通らずに済むのなら、何も言わず
近寄って見ただろうね。とても礼儀正しい人だったよ。仲睦まじくて、三年前に別れた
妻のエカテリーナを思い出したっけ」
「ああ、三人目の奥さんですね」
 烏丸が合いの手を入れると、昔を思い出したのであろうか。隆秋は空を見上げた。
少量の白髪がふわふわと風に揺れる。
「私の親友は、この絵を愛する人々を見守ってくれているのかもしれないな」
 風が強く吹いて、森が鳴った。空間の囁く音が心地良く、海老名はそっとまぶたを閉
じる。やさしい日差しが体を包んだ。
 ありがとう。
 海老名は烏丸の手のひらにゆっくりと文字を書く。烏丸はにっこりと笑った。
「どういたしまして」

 しばらくして、烏丸と海老名は学校へと戻る。
「うわ、もう昼休み終わっちゃうかな? 急がないといけないよね」
 成り行き上握っていた右手を放し、腕時計を確認すると一時だった。
「『一時』? あー、じゃあもう行かないとね」
 東門には人気が無い。夏休み中は陸上部が練習に使う為に開いているが、通常は登下
校時のみ鍵が開けられる。下駄箱に遠いからか、あまり使われない。
「ごめんね、いろいろと。俺と歩くのなんて大変だったよね」
 ふるる、と海老名は首を振る。そんな事は無い。一生懸命にいろいろと考えてくれた。
どうしても見てみたかった絵を見せてくれた。無茶を可能にしてくれた。そして……。
 楽しかった。
「……」
 手を取ろうとして、海老名は少しためらった。
「海老名さん……どうした? 具合悪い?」
 違う、のだ。違う。
 でも、何故かもどかしい。
 声を失って、自己表現の手段をひとつ失った。だから、絵を描く事にのめり込んだ。
 絵を描けば、思っている事を伝えられる。
 そう思っていたのに。そう信じていたのに。
 彼には伝えられない。伝えたいのに。
 ……何を?
「海老名さん!」
 大丈夫、です。ちょっと考え事しちゃっただけ。
 結局、海老名は彼にそう伝えた。
 文化祭の準備、頑張りましょうね。
「……うん。そうだね。じゃあ」
 烏丸は笑って歩き始める。その背中を見て、海老名は思う。
 何を伝えたいんだろう。彼に。分からない。でも、何かを伝えたい。
 「ありがとう」。それが全てのような気がする。

 隆秋は絵の前で白いタイルを握り締める。
「やっぱり、嘘吐きはいけないよなぁ」
 タイルに刻み込まれた名前を指でなぞり、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、嘘をついたわけじゃないから。いいよな、笹木」
 桜の木は妖しいから魅せられる。
 タイルの桜は優しい思いが込められている。
「君の想いは実らなかったけれど、この絵はいろいろな人の想いを繋いでる。佐倉もき
っと、君を忘れてないよ」
 幼くて、気持ちを伝えられなくて。
 結局異国の灰となった親友と、その想い人。
 彼は優しく微笑んだ。
 未だ若き、悩める者の為に祈りを。
「彼らには時間があるからね。……きっと良い祭になるよ」
 秋桜の季節はすぐそこまで来ている。 


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