いつから涙が出なくなったのか。 はっきりとは覚えていないが、少なくとも幼い頃はよく泣く子供だったと思う。一人で 遊んでいたりすると急に寂しくなって泣き喚き、母親を困らせた。 とにかく人一倍寂しがり屋で甘えん坊だったのだ。 それがいつから――― ……いや、何が原因かはわかっている。 あの出来事があってから、確実に自分の中から何かが欠け、なくなっていった。 「泣いてもいいんだぞ、トキ」 僕だって泣きたい。でも泣けないんだ。 「…悲しくないのか?」 わからない。 悲しいって何だっけ?それって痛いこと? 欠けていく。 ずっと持っていた大切なもの。 それは今も戻ることはなく――― 「とーきっ!朝だぞっ。起きてこーい」 「ふあ…?」 寝惚けたまま時計を見る。早朝5時。 何だ。まだこんな時間じゃないか。 「飛行機に間に合わなくなるぞっ。今日出発じゃなかったか?」 「……あ」 そうだった。 朱鷺は跳ね起き、着替えを引っ掴んだ。ズボンをはき、Tシャツを被りながら階段を下 りる。リビングに入ると急に腕を引っ張られた。ひんやりした手が額にあたる。 「よし。熱はないな」 「律矢(りつや)は過保護過ぎ」 「昨日まで高熱出してた奴が何を言うか」 軽くデコピンされて、トキは「いてっ」と額を抑えた。 五島律矢。血のつながりはないが、朱鷺のたった一人の家族である。 「朝食は?」 「食べてくよ。まだ時間余裕あるし」 「了解」 律矢は手際良く料理をテーブルに並べていった。すらりと背が高くすっきりと整った容 姿は朱鷺の憧れだ。朱鷺もそれなりに顔は整っているとは思うのだが、身長は17になっ た今も170に届かない。遺伝的にはもう少し伸びるはずなのだが。 それにしても。 朱鷺は思う。 これだけ格好良くて家事もできて収入もそれなりに安定しているのに、律矢にこれっぽ っちも女の影がないのは何故だろうか。 ――俺のせいかぁ。どう考えても 養子とはいえ、これだけ大きな子供がいるのは25歳青年にはかなりのネックだろう。 早いとこ自立して彼に迷惑をかけないようにしたいのだが。それを言ったら全力で駄目だ と言われた。 どうしろと言うんだ。 まぁ、つまり何というか彼は…… 「しばらく朱鷺がいないのか……寂しいなぁ」 「しばらくったって、たったの四日だよ?」 「必ず毎日電話はするんだぞ。あ、あと知らない人に付いてくなよ」 「律矢ぁ。俺、もう高校生なんだけど……」 彼は異常なほど過保護なのである。 こうなってしまうのも仕方ないことなのかもしれないけれど。 律矢と朱鷺が一緒に暮らし、家族になるまでの経緯はかなり特殊だから。今までも朱鷺 はずっと律矢にべったりだったし、彼以外の人間と学校行事以外で旅行に出かけたことは ない。 それが突然、友人二人と沖縄旅行に行こうというのだ。彼が心配するのも無理もないこ となのかもしれなかった。 「薬はちゃんと持ったか?病み上がりが一番危ない」 「あ、うん。それはばっちり。にしても―――」 「医者のことか?」 「うん。やっぱりどう考えても初対面だったんだよね…」 三日前のこと。 風邪をひいた上、微熱まで出てきたので、朱鷺は一度近所にある医者を訪れた。医者に 行くなんて小学生の時以来で、診察室にいた医者は朱鷺には見覚えの無い男だった。 なのに。 「朱鷺くん…?うわぁ、本当に朱鷺くんだ!懐かしいなぁ」 などと言われたのだ。「どこかで会ったことありますか」と訊くと、こんな応えが返って きた。 「僕はあるけど、君はないだろうね」 意味がわからない。 この医者、頭がおかしいんだろうか。 この近くに精神科はあったかと考えを巡らせていると、医者はその温厚そうな顔を緩ま せた。 「近いうちに意味がわかるよ。明々後日は沖縄に行くんだろ?」 「は…?何でそのこと…」 「さぁ。何でだろうね」 益々医者への不信は深まるばかり。診察中、じっと睨んでやっていたのだが、結局最後 まで彼は笑みを消さなかった。 「何だったのかなぁ。あの医者……」 「まぁ、深く考えるなよ。仮定ならいくらでも立てられるんだからさ」 例えば彼は朱鷺の友人の兄か何かで。それなら一方的に朱鷺のことを知っていても頷け る。朱鷺は浮かれて沖縄旅行のことを色々な人に言い触らしていた。その中にその友人が いたのかもしれない、と。 すらすら言ってのける律矢に、朱鷺は目を丸くした。 「何か律矢、探偵みたい」 「元・ミステリーマニアをなめるなよ」 あくまで「元」。 今の彼が推理小説どころか、二時間ドラマすら好んで見ないことを朱鷺は知っている。 「そういうわけだから、気にせず楽しんで来い。了解?」 「りょーかい」 朱鷺は軽く敬礼してから「ごちそうさま」と手を合わせた。 いつまでも名残惜しそうな律矢をなだめ、外に出る。 肩にかかる荷物は重いが、気持ちは軽い。 明るく振舞っているおかげか友人は多い朱鷺だが、特別仲の良い人達に出会えたのは高 校に上がってからだった。それまでは誰かとこうして旅行に出かけることがあるなんて、 夢にも思わなかったものだ。 「おはよう」 「え?」 唐突にかけられた声に驚き振り返ると顔見知りの老人だった。名前は知らないものの、 登下校の途中でよく会うので何度か会話はしている。 「あ、おはようございます」 「今日はまた随分と楽しそうだね」 「ええまぁ。これから友達と旅行なんですよ」 「なるほど」 彼は老いても尚意志の強さを感じさせる目を細めた。 以前歳を尋ねたら「七十は過ぎてる」と答えられたのだが、とてもそうは思えない。ぴ んと伸びた背は高く、朱鷺が見上げてしまうくらいだ。髪は白髪だが、顔に皺は少なく声 も若々しい。六十代前半でも充分通るだろう。 老人は微笑んだまま口を開いた。 「きっと長い旅になるよ。沢山傷ついて、沢山泣くかもしれない。でもその分、沢山嬉し かったり楽しかったりするから安心していい」 随分と大袈裟な物言いに朱鷺は苦笑する。 「長いって……三泊四日ですよ?」 「ああ……そうか。まぁ、今のは老人の戯言として聞き流してくれて構わないよ」 「はあ」 首を傾げながらふと思った。この老人もあの医者と同じような笑い方をする、と。 「えーっと……。俺、そろそろ行きますね」 「ああ。行ってらっしゃい」 老人の視線を背中に感じながら歩き出す。 「……頑張れ。朱鷺」 「……え?」 もう一度振り向いた時にはもう、老人は先の角を曲がっているところだった。 頑張れって何を?いや、それよりも…… 「俺……あの人に名前教えたっけ……?」 空港には一番に着いた。 待つこと数分。 「おっそいよ。二人とも〜」 朱鷺より背の高い島袋翔は「ごめん」と手を合わせて謝り、朱鷺より背の低い川島宗太 は時計を見せて「集合時間1分前だ」と言い張った。ちなみに三人とも名字に「島」が付 くことから、「島トリオ」と少々格好のつかない呼ばれ方をしていたりする。 「楽しみだな、沖縄―!俺、飛行機って初めてだよ」 「あ、そーなんだ?」 「朱鷺。飛行機では靴を脱がないといけないんだぞ」 「え、マジ?」 「嘘」 「宗太ぁ〜」 ケラケラ笑いながら搭乗口に向かった。 ふと視界の隅に一人の青年が映る。沢山の人の中で何故その青年だけが頭に引っ掛かっ たのかはわからない。ただ何となく目を向けると彼はこちらを見ているようなのだ。 唇が動く。遠過ぎて声は聞こえない。 「……"お……ち……る……"?」 口はそう動いているようだった。 落ちる。 何が。 この飛行機が? 「そう簡単に落ちたりしないと思うよ、朱鷺」 「何だぁ、朱鷺?飛行機、恐いとか?」 「そういうわけじゃないけど……」 「だったらもたもたしてないで、とっとと乗るぞっ」 宗太に引っ張られても、朱鷺はどこか上の空だった。 最近奇妙なことが続く。 医者に老人にあの青年。 彼らはいったい何者なのだろう? 何を朱鷺に伝えようというのだろうか。 ただ、少なくとも青年の言葉だけは、数十分もたたないうちに現実のものとなる。 落ちていく感覚の中で、朱鷺は見知らぬ何人もの人の声を聞いたような気がした。 あたしなんか死んだって、誰も悲しまないでしょ? …誰? こわい……こわいよ…… 誰だよ。 あつ……い… 仕方ないさ。これは……もう… 誰なんだ。 は。おれが死んだらあんたは幸せになれるってーのか?馬鹿馬鹿しいな 知らない声。 このまま死んでしまえばいい。国の役にはたてなかったけど、生き延びる方が恥だ 知らない想い。 まぁ、いいか…。どうせくだらない人生だ 君は……誰? ただ、落ちる―――