辺りはもう暗くなりかけていた。太陽の位置から考えて、西には向かっているはずなの だが未だ「西地区」らしきものは見えてこない。 「と、いうかそもそもどういう場所なのかわからないんだから、見つけようがないわよね」 「もう通り過ぎちゃってたりして……」 「今の発言でオレのやる気が2割減少した。責任取れ」 「無茶言うなっ!」 橙馬の怒鳴り声にも元気がない。 見知らぬ土地で数時間歩きまわるのにはかなりの体力が要る。何でも笑ってこなしてし まいそうな白兔の顔にも疲れの色が出ていた。 「もうこうなったら誰かに訊いてみようか…」 「却下ね」 「馬鹿かお前は。そんなことしたら問答無用で連行されっぞ、オレ達。"西地区の人間かぁ 〜?"って」 「うあああああああああ」 追いかけられた時の恐怖を思い出したのか、橙馬は頭を抱え込む。 さて、どうしたものか。 地図でもあればいいのだが。そんな実用的なものがここにあるとは思えない。 だいたい店らしきものもあまり見当たらないのだ。ここには一つ高いビルが建っている だけである。先程から何人もの人間が出入りを繰り返していた。 「政府というか…何か中央機関の建物なんじゃないかな」 と、いうのが橙馬の予想。 確かにそういうものが存在するのなら、それらしいのはこの建物くらいしかない。時折、 警官っぽい服装をした人間が姿を現す。その度に橙馬はびくっと震え、白兔が身構えてい た。 ――このままじゃ死ぬわね。ストレスで 死ぬのには全く抵抗のない桃だが、その死因はさすがに嫌過ぎる。 そろそろここを離れようと歩を進めようとした時、警官らしき人間の口から「西地区」 という言葉が漏れた。 もしかしたらとその警官の後をつけることにする。 警官は街の一角にある草むらの中に入っていった。植物や木が生い茂り、もはや道では ない。かなり草を揺らして追いかけたのだが、気付かれることはなかった。 やがて大きな門が表れた。高さは7m、幅は5mくらいだろうか。かなり古いものなの か、それとも単に開かれる機会があまりないだけなのか。鉄の門はすっかり錆びついてし まっている。見張りは追跡した警官を加えて二名。草の影に隠れて様子を伺った。 「こんな所にあったら誰も気付かねぇっつーの」 白兔が小さく毒づく。 「随分と隔離されてるんだね」 「それだけここの人達にとっちゃマズイ場所ってことでしょ」 予想するに中にいるのは普通の人間だろうが。 「まったく……おかしな世界だよな。本気でこれが日本の未来だったらと思うと寒気がす るぜ」 「……そうね」 答えながらも桃はこの世界を妙にリアルなものとして受け止めていた。何でもかんでも 機械化している世の中だ。最近では妙に人間に近いロボットも完成していたりする。いつ か……いつか人間だってそうなるかもしれない。最近見た映画にもそんなのがあったし。 別に…不思議はないと桃は思う。 物凄く怖いことではあるけれど。 「ど…どうしようか……?」 「どうするって……ここまで来たんだ。強行突破しかないじゃん」 「ええーっ!?」 情けない声を出す橙馬の頭を「つべこべ言うな」と白兔が叩く。橙馬はまだぶつぶつ言 いながらも門をじっと見つめ、覚悟を決めたようだった。 「桃ちゃんはここで待ってな。すぐにあいつら蹴散らしてやるからさ」 「が…頑張るよ……」 明らかに橙馬の方は頼りなかったが、頷いてやる。 橙馬の代わりに自分が行った方が良いような気もするけれど。妙に女に甘そうな白兔の ことだ。全力で止められるだろう。 「っしゃあ!行くぜ!!」 本当に一瞬の出来事だった。 瞬きを一回するうちに白兔と橙馬は数十人の男たちに囲まれていた。どうやら先程の騒 ぎのせいで、警備が厳重になっていたようだ。 「逃げろっ!!」 白兔の声がこちらに飛んでくる。立ち上がった直後、背中に何か硬いものが当たった。 何時の間にか桃の背後にも男がいたことに気付くのに2秒。背中に突きつけられているも のが銃だと気付くのに3秒。 白兔が忌々しげに舌打ちをした。 銃を突きつけられた状態で3人並んで歩かされる。 「…どこに連れてかれるのかしら」 「か…改造する施設……とか」 「ちっ。洒落になってねぇな」 顔を歪めながらも白兔はまだ諦めていないようだった。先程からきょろきょろと男達を 見回し、チャンスを覗っている。 「……桃ちゃん」 「…何?」 白兔が耳元で囁いたので桃も小声で応えた。 「…上手く逃げろよ」 「……え?」 横を向いた時には後ろで縛られている両手を白兔が勢い良く上にあげている所だった。 銃の先が跳ね上がり、警官の額にヒットする。それで怯む警官ではなかったが、間髪入れ ずに蹴りを入れると地面に倒れた。白兔は桃の背後にいる警官の足を払い、転ばせる。耳 を劈くような発砲音が響いたが、桃の右肩を掠っただけですんだ。 「とにかく走れ!絶対振り向くなよっ」 「ちょ…それって……」 白兔と橙馬はどうするのだ。 白兔は次の警官を蹴り倒しながら笑ってみせる。 「オレ達も上手く逃げるさ。下町の番町をなめんなよっ」 「……」 桃は頷き、走った。 背後でまた発砲音がしたが振り返らなかった。 大丈夫。彼は強い。 彼がいれば橙馬だって無事に逃げ切れる。 草に足を取られ、転びそうになりながらも桃は何とか街中に出た。しばらくめちゃくち ゃに走って、狭い路地に潜りこみ、壁に寄りかかる。 今更、右肩から血が出ていることに気付いた。 「はあ…何でこんなことになるのよ……?」 一瞬でいいはずだった。 痛みを感じる暇もないまま、死んでしまうはずだった。 一番楽で、一番派手な方法で死んでやろうって。 もう痛いのは嫌だったから。 なのに、今、容赦なく痛みは襲ってくる。 どうして、どうして、どうして 「……痛い……」 この痛みも流れている赤い血も生きている証だ。 桃はポケットに入っていたハンカチで右肩をきつくしばった。ティッシュで腕に伝った 血を拭い、その場に捨てる。 こんな所でじっとしていてもどうにもならない。 とりあえず二人を助ける方法を考えなければ。 そう、死ぬのはいつだってできる。 このわけのわからない世界から脱出してから、また飛び下りればいい。 ただ一つだけはっきりと思うこと。 この世界でこのまま死ぬのだけは嫌だった。 妙に肩が痛むと思ったら雨が降っていた。 傷口が濡れてズキズキと悲鳴をあげているが、この街にも雨は降るのだと少々安心する。 予報されていたことなのだろう。行き交う人々は全員傘をさしていた。 そういえば。 幼い時にこんな雨の中で迷子になったことがある。傘も持たないまま、めちゃくちゃに 歩きまわった。どこかで雨宿りすればいいものを、その時の桃は家に帰ることしか頭にな かったのだ。 ――結局……どうしたんだっけ? 一人で家に帰れたのだろうか。あまり記憶に残っていない。 次の雨の記憶は中三の冬。 家に帰りたくなくて、街中をふらふらしていたら通り雨に遭った。びしょ濡れになって 近くの店に駆け込み、結局父親に迎えにきてもらった。しつこく怒られた上に高熱を出し、 3日間寝こんだ。 何だか嫌な想い出ばかりだ。 だから雨は嫌い。 惨めな気持ちになってくる。 肩の血は止まることなく、地面に赤い跡を残す。 痛みからか気が遠くなりそうになった。足下が覚束無い。 死ぬことはないにしても、きちんと止血しないと危ないかも…… とうとう立っていられなくなって、壁に手をついて体を支える。 感情のない街だ。 誰も桃を気にかけない。 でもそれが悲しいとは思わなかった。 現実でだって桃はいつでも一人だ。 どんなに痛いと叫んでも誰も助けてくれはしない。 誰も――― 「ちょっと君、大丈夫?」 ―――――え 顔を上げる前に気を失っていた。