幸い時計は狂っていないようだった。 午後3時20分。 昼食を食べ損ねているので空腹で気分が悪い。砂漠はまだまだ続く ようでもしかしたら終わりがないのかもしれないとも思えてくる。 汗が落ち、朱鷺はTシャツを肩の上まで捲り上げた。ずっと涼しい顔をしていた紫苑も 暑苦しそうだった上着を脱いでいる。それでもまだ長袖だったが。 そう考えても夏の服装ではない。日焼けがそんなに嫌なのだろうか。まあ、それはそれ として――― 「ねえ、お腹減らない?」 「……」 「喉も乾いたしさぁ」 「お前は黙って歩けないのか」 いらいらした口調で紫苑は振り返り、 ぐー ……間抜けな音が響いた。 反射的に腹をおさえた朱鷺だが、今のは自分ではない。紫苑を見ると彼は難しそうな顔 をしていた。思わず吹き出す。 「あははははははっ」 「笑うなっ」 「だよねぇ。やっぱお腹空いたよなー」 リュックを前に回し、中を探ってみた。不機嫌そうながら、紫苑も中を覗きこんでくる。 出てきたのはアメ、酢昆布、グミ――― 「…これだけか」 「これだけだね」 二人同時に溜息をついた。 こんなことならポテトチップスでもせんべいでも入れてくれば良かった。かさばるから と律矢に没収されたのだ。 朱鷺はリュックのチャックを勢い良く閉め、右手のこぶしを空に突き上げた。 「とにかく歩くべし!」 「……だな」 「だいじょーぶだって。そのうち絶対何か出てくるよ。永遠に続く砂漠なんて地球上じゃ 有り得ないもん」 「……地球上ならな」 「……何、それ」 怪訝な目で見るが、紫苑は何も言わない。 「地球上じゃなければ、どこだって言うんだよ。異世界?異空間?紫苑、それってSF映 画の見過ぎだよ」 馬鹿らしいので笑い飛ばしてやろうと思ったが、紫苑の表情は真剣だった。思わず口を 噤む。 「なら訊くが、お前はどうやってここに来たか覚えているのか?」 「いや、さっぱり」 覚えていないどころか見当もつかない。 飛行機から何かしらの方法で脱出できたのだとしても。飛んでいたのは海のど真ん中だ。 落ちるとしたら水の上。砂の上は有り得ない。 「俺は東京都内にいた。それが気付いたらここだ。その時点で充分非常識だろう」 「それは……そーだけど」 「だったらここが異空間だとしても驚かないぞ、おれは」 「うーん……?」 確かに一理あるが、急にそんなファンタジーな話をされてもいまいち実感が湧かなかっ た。それなら……あまり信じたくはないが、こういう方が現実味があるのではないか。 「俺達、もう死んでてさ。ここはあの世ってことは?」 「…却下」 軽く払い除けられる。 「えー、何で?」 「さっきお前が倒れていた時、生きているかどうか確認した。ちゃんと心臓は動いている ようだったぞ」 「そっかぁ、それなら……」 朱鷺は自分の頬をつねってみた。痛い。 続いて紫苑の頬に手を伸ばし、引っ張る。 「……何の真似だ」 「夢ってことはないかなー、と。痛い?」 「普通に」 「あ、そう」 淡い希望が簡単に崩され、肩を落とした。紫苑は朱鷺の手をよけ、 「つまりここはあの世でもなければ夢の世界でもない」 現実。信じられなくても、ここは現実の世界なのだ。 それは嫌でも認めざるをえない。 「…どうしよっか」 「とにかく歩くんだろ」 「……だね」 照りつく太陽が眩しい。太陽があるということはやっぱり地球なんじゃないだろうか。 そう言ったら紫苑は 「かもな」 と短く答えるだけだった。それがどうしたとでも言うように。 ――太陽だけじゃ確信できないよなぁ。 似たようなものは異空間にも存在する可能性はある。太陽でなくてもそれに代わるもの がなければ、人は生きれないだろう。 ここに人がいるのかどうか、まだわからないけれど。 少なくとも生物はいるだろうが、それが人の形をしているとは限らない。そう考えると ぞっとした。首を横に振る。 ――こういう時は前向きに! 沈んでいても仕方が無い。いつでもどこでも+思考がウリな朱鷺だ。 「頑張れ、自分!おー!」 大声を張り上げたら紫苑に「うるさい」と叩かれた。 気合を入れただけなのに。 そうこうしているうちに時は過ぎ、時計の針は7:00を差している。日は完全に落ち、 闇の世界が訪れた。が、全くの暗闇ではない。淡い光が顔を照らす。 「月だあ」 「そのようだな」 「人がいそうな場所はなさそうだし、今日は野宿かなー」 朱鷺は荷物を置き、その場に腰をおろした。紫苑が立ったまま顔をしかめる。 「……砂の上で寝るのか」 「うん。荷物を枕にすれば寝れないこともないよ」 「……」 彼はしばらく考え込んでいたが、やがて結論が出たのかハンカチを砂の上に敷き、そこ に座った。そこから育ちの良さが覗える。もしかしたらどこか良家のお坊ちゃまなのかも しれない。 それから少しでも飢えを誤魔化そうと、昆布を二人で分け合った。 何度か紫苑に話しかけてみたが、彼は何も言わない。砂漠の先をじっと見つめ、何かを 考えているようだった。 まだ眠る気にはなれず、荷物の中にノートがあったので今日あった出来事を何となく書 いてみた。 どこまでも続く砂漠。太陽と月がある世界。 もし本当にここが異空間で、何かの弾みで迷い込んでしまったのだとしたら。 現実の世界では今、どうなっているのだろう。 飛行機は海に落ちた? それで――― ――やめよう。 それこそ今考えても仕方が無い。 朱鷺はノートを閉じ、リュックに頭を預けた。夜空には無数の星。星と星を線で結んで みる。 ――あ、大三角形。 あれが夏の大三角形だとすると、あそこにあるのは…… 「っ」 朱鷺は思わず飛び起きていた。 「…紫苑っ」 「…どうした、急に」 「ここ、やっぱり地球だよ。間違いないって!」 ずっとそっぽを向いていた紫苑がこちらに視線を向ける。「何を根拠に」と怪訝そうな顔 だ。朱鷺は立ち上がり、腕を大きく広げた。 「星だよ。星の見え方が同じなんだ」 「星……」 夜空を見上げる紫苑に、朱鷺は「あれは」と指差しながら解説する。律矢が天文学を学 んでいたことがあったので、星に関してはそれなりに詳しかった。 「地球だとして、どこだ?」 「日本か……その周辺じゃないかなぁ」 時計を見ると午後9:30。数日前見上げた星空と星座の位置はあまり違っていない。 「日本にこんな砂漠はないだろう」 「鳥取砂丘…とか」 「……話にならないな」 溜息をつかれ、少々むっとする。朱鷺だって本気で言ったわけではなかった。 「でもさ。ここが地球だってことは確かだよ」 「……」 紫苑は考え込むように空を見つめ、それきり口を開かなくなってしまった。朱鷺もリュ ックに頭を預け、目を閉じる。 明日朝目覚めたら、全てが夢だったらいいのに。 淡い期待を抱きながら。 「とーき、起きろよ」 「もうすぐ着くぞ」 「んー……?」 瞼を上げて、目をこすった。欠伸をかみ殺しながら口を開く。 まだ舌が上手くまわらない。 「……今、どこ……?」 「天国まであと3分ってとこかな」 ……天国?それってどういうことだ? 「…沖縄、行くんじゃなかったっけ……」 「何言ってるんだよ、朱鷺」 両隣でケラケラ笑う声が聞こえる。 「俺達、さっき死んだだろ?」 「っ!!」 反射的に飛び起きていた。顎の下を手の甲で拭う。じっとりと嫌な汗をかいていた。 胸に手を当てる。確かに感じる鼓動。 大丈夫。生きてる。 ほっとするが、あの二人は? やはり死んでしまったということなのだろうか? 死。 その言葉はいつでもこの胸を締め付ける。 痛くて痛くて吐き気がした。 「―――おい」 「……え?」 はっと我に帰ると、昨夜とまったく同じ場所、同じ体勢で紫苑がこちらを見つめていた。 その顔に疲れはなかったが、寝ていないのかもしれない。 「あ、ごめん。何?」 「いや……。何でもないならいい」 「……?変な奴」 「目が覚めたなら行くぞ。二日連続こんな所で過ごすのはごめんだ」 それは御尤も。 リュックを背負い、立ち上がった。少しふらついたが歩ける。 「この砂漠、終わりってあるのかな」 「無限に続くことなど有り得ない。ここが地球上ならな」 「そだね」 ここが異世界ではなく地球とわかっただけで、いくらか気が楽になった。人が住んでい る場所に辿り着ければ、全てどうにかなる。 現在地を尋ねて、律矢に連絡をとって。 飛行機がどうなったのかも調べてみよう。 「早く帰れるといいよね」 「……」 「家族も心配してるんじゃない?」 「……それは、どうだかな」 紫苑の表情がわずかに曇る。家族がいないわけではないようだが、あまり仲は良くない のかもしれない。その話題はそれ以上続けないことにして、朱鷺は今までずっと気になっ ていたことを訊いてみた。 「ねぇ、長袖暑くない?」 「暑いな」 「何でまくらないの?」 「……」 あれ?これもアウト? どうもこの少年には地雷が数多く存在するようだ。軽率な発言は控えた方が良さそうで ある。 それきり口を開かず、二人は歩き続けた。 太陽が真上まで昇る頃、朱鷺は砂漠の先に黒い点を見つける。 「あ」 「どうした」 「あれ。向こうの方、何か見えない?」 紫苑は目を細めるが見えていないようだ。視力2.0の朱鷺だからこそ見えるのかもし れない。 「街!街だよ、きっと!」