修羅と楔


 どこかで誰かが泣いている。

 赤ん坊の声だ。

 また”望まれぬ者”が生まれてしまったのだ。

 ――そうだ、今のうちに泣いておけ。

 そのうち嫌でも泣けなくなる。

 自分ももう何年も泣いていない。

 涙の流し方など忘れてしまった。必要のないものだからだ。

「阿修羅(あすら)様っ」

 男の声に彼―阿修羅は顔を上げた。

 銀髪が揺れる。金色の瞳が日にあたり光った。

「何だ」

「はいっ、あの…ついに”彼”が見つかったんですよ!」

 阿修羅の細く長い眉がぴくりとあがる。

 鋭い眼光に射抜かれ、正面の青年は冷や汗を流した。

 どんなに阿修羅を知っている人間でも、彼の前に立つとかたまってしまうのだ。

 全身の血液が凍ったような感覚。

 それだけ彼には威圧感があった。

「……どこだ?」

「あ…えっと……。カストリアの西方にある森で偶然見かけたという者がいまして。何で

 も何匹もの魔物を一瞬で倒したとか」

「……”彼”で間違いないな」

 この世で唯一、圧倒的な力を持つ人間―――

「それで、誰かを向かわせたのか?」

「いえ……。それが、その先の街に”風鳥(かざどり)”が潜伏しているらしくて……」

「”楔”か」

 どうやら阿修羅は嘆息したらしかった。物憂げな瞳で空を仰ぐ。

「しばらく様子を見る」

「あ、はいっ。わかりました!では……」

 青年は深く頭を下げると、そそくさとその場を去っていった。

「楔……」

 もう一度つぶやく阿修羅。

「あいつに何かできるとは思えんがな」

 視線を下に戻し、阿修羅は踵をかえした。

 赤ん坊の泣き声はいつのまにか聞こえなくなっていた。

 

「楔(くさび)ぃ〜っ!!」

「んにゃ?」

 仲間の大声に彼は首を傾げた。

 少年の顔がだんだんと近づいてくる。気がついたら胸ぐらを掴まれていた。

「え、何?何?」

「お前しかいねーよな。いや、絶対にお前だ!」

「へ?」

 更に首を傾ける。

 布が乱雑に巻きつけられている銀髪が、さらっと横に流れた。

「え〜っと、俺、何かしたっけ?ヒドリ」

「こ・れ・だ・よ、こ・れ!」

 ヒドリと呼ばれた少年は、楔に白っぽい何かを突きつける。

「何に見える?」

「何って紙じゃん。やだなぁ、そんなのさすがの俺でもわかるよ〜」

 あははと笑う楔の頭をヒドリがおもいきりはたいた。

「痛っ……!」

「お前の目は飾りもんか!」

「だってさぁ……」

 楔は口を尖らせる。

 突きつけられた紙には青いマーカーで魚の絵が描かれてあった。

 先ほど楔がやったものだ。

「何かをかかれてこそ紙だろ。ほら、見てみなさい。俺の素晴らしき美的センスに、紙も

 喜びに打ち震えている」

「お・ま・え・は〜っ!」

 ヒドリは楔の顔を自分の顔に近づけた。

 人通りの多い街中。聞かれてはまずい話なのか小声でささやく。

「これは昨晩、この街で一番の金持ちの家から盗んできた紙だ。それはわかってるな?」

「うん。俺もいたもん。知ってるよ」

「いいか。よ〜っく、聞け。この紙はな、遥か西の彼方に生息しているという伝説の魔物

 ”バーミリオン”の毛の繊維から作ったと言われている紙なんだ」

「う……ん?」

「つまりな……」

 ヒドリはおもむろに楔の首に腕をまわした。もう片方の腕の拳を彼の脳天にあて、ぐり

ぐりとこする。

「オレ達五人の夕飯の約三年分に値する代物なんだよっ」

「うわぁぁあっ、ごめんなさいぃぃぃぃぃ!!」

 大声で喚く楔。流石に人々の視線が集まり始めたので、ヒドリは楔を解放してやった。

「…あのさぁ、ひとつ確認してもいいか?」

「何だよ。あ〜痛い……」

「お前、今いくつだっけ?」

 ヒドリの問いかけに、楔は幼い子供のようにびしっと右手を挙げ、

「15、15〜。ヒドリと同い年〜」

「はぁぁぁ……」

 ヒドリは肩を落とし、頭を押さえた。泣きたくなったが、我慢する。

「ったく、お前ってほんっっとにバカだよな。少しは賢くなれよ……」

「やだ。俺、別にバカでもいいし」

「何で?」

「だって、ヒドリもみんなも優しいもん」

「……っ」

 恥ずかしがることもなく無邪気に言ってのける楔に、ヒドリは一瞬だけ言葉を失った。

 黙ったまま楔の頭を軽く叩く。

「お前が良くてもオレ達が困るんだよ。バ〜カ」

「へへ」

 楔は笑った。

 そう、バカでもいい。

 バカの方がいい。

 こうして楽しく過ごせるなら。

 皆と居られるなら。。

 ――いいんだ。俺はずっとこのままで……

 布が風に揺れる。

 それが飛ばないように頭を押さえながら、楔は心の中、呟いていた。


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