メリー・クリスマス・イブ・イブ


『ねー、今日暇?』
「なんで?」
 急にかかってきた電話は、『自称・親友』佐藤春樹から。
『悪いんだけど、仕事頼まれてくれない? 生徒会のなんだけどさー』
 今回の出来事はこの電話がきっかけだった。 

 温かい暖炉がパチパチ燃えて、その横にはロッキングチェア。黒猫を膝に乗せた少女
が柔らかに微笑む。
「それ、新作?」
 薄暗い美術室で筆を走らせる海老名千乃は、顔を上げてこくりと頷いた。そしてまた
絵に絵の具をのせ始める。
 背の高い青年が足を組んで書類に目を通しながら、彼女に話し掛けていた。今日は珍
しく男子生徒の制服を着込んで、耳に掛からないほどに短くされた黒い髪が見えている。
〔それ、生徒会の仕事ですか?〕
 海老名は絵筆を置いて、傍らのメモ帳に文字を書いて青年に見せた。
「そう。今年の行事の報告書だよ。予算とかは会計がやってくれるけど、こういうのは
私の仕事だから」
 がらり、と教室のドアが開き、男子生徒が入ってきた。
「鳴海先輩、高原先輩が呼んでましたよ」
「ああ、ありがとう。ここの戸締りは二人に任せて大丈夫かな」
「はい。って、ええっ! 先輩戻って来ないんですか?」
「うん。忙しいから。じゃ、烏丸君。戸締り終わったら生徒会室まで報告に来てね」
 廊下が寒いからだろうか、頬を赤くした青年に鳴海はにこりと笑いかけ、颯爽と教室
を出て行った。
 会長が強引なのはいつものことだと聞いている。怒っても仕方ない、と烏丸鈴鹿は気
持ちを落ち着ける努力をした。
「進んだ?」
 海老名の隣りに座って、烏丸は感覚を研ぎ澄ませる。彼女が頷いた気配がした。
「どんな絵を描いてるの?」
 絵筆が置かれた音がして、細い指が烏丸の手の平に文字を描く。
〔女の子の絵。黒い猫を抱いて、ロッキングチェアに座ってる〕
「ろっきんぐちぇあ?」
〔おばあさんが座っているような、木のゆらゆら揺れる椅子〕
 想像してみた。小学生ぐらいの女の子が椅子に座り、お気に入りの黒猫を膝に乗せる。
猫は気持ち良さそうに丸くなり、その横ではパチパチと暖炉が燃える。やっぱり、ロッ
キングチェアといえば、暖炉だろう。この美術教室も暖房が効いているが、絵の乾燥が
早くならないようにと低めに設定されている。吐く息が微かに白い。
〔ごめんなさい。寒いでしょ?〕
「え? いや、大丈夫」
 心を読んだような言葉に驚きつつも、烏丸はそっと手を伸ばした。指先がキャンバス
の横に触れる。ざらりと木の断面の感触を楽しみながら、ふっと、小さなため息を漏らした。
 この、言葉を失った少女と一緒にいると、嫌でも目が見えないということを再確認さ
せられてしまう。以前はそういう場面を避けて来たのに、何故かこの頃は彼女と一緒に
いたいと思っている。
〔もう少しで区切りがつくから。そしたら、帰ります。つきあせちゃってほんと、すみ
ません〕
「や、気にしないで」
 烏丸は空を仰いだ。なるほど、こうなることを予測して、佐藤春樹は生徒会を手伝う
ように自分に言ったのか。もしかすると会長とグルだったのかもしれない。
 カチャカチャカチャ、とオイル瓶の縁に筆が当たる音がして、海老名は立ち上がった。
出来上がったらしい絵を乾燥させる場所に立てかけて、道具をしまう。
 しばらくして、暖房の音が消えた。
〔終わりました。……あっ!〕
「ど、どうした? うわっ」
 海老名は烏丸の右手をぎゅっと引っ張って、窓へ駆け寄る。
〔雪〕
「雪?」
 窓を開ける音がして、彼の右手は冷気に冷やされた。その手の平には、ぽつぽつと雨
のようなものが冷たさと共に降りてくる。
〔一日遅ければホワイトクリスマスになったかもしれないのに〕
 走り書きのように指が描いた言葉は、心に温かな雪を降らせた。

 ……メリー・クリスマス・イブ・イブ。 


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