迷宮劇化


 「不思議の国のアリス」。
 ルイス=キャロルの童話。一八六五年刊。ウサギを追って穴に落ちた少女アリスが、
地下の不思議の国でさまざまな出来事にであう。
「……この物語がどうしたというのだ?」
「もー、忘れちゃたの? 今年の生徒会主催の英語劇。話題性のありそうな事、思いつ
いちゃったんだ」
 にやり、と笑うのは背の高い美女――ならぬ、女装趣味でこの学校の生徒会長兼副会
長というとんでもない肩書きを持つ男。
「主人公は可愛い男の子がやったら良いと思うんだ」
「……そうか。で、候補はいるのか?」
「あれ、すんなり。反対しないの?」
 今日は珍しく、ウィッグはしているものの、男子制服を着ている鳴海は目を見開いた。
「お祭なのだから、ハメを外そうという者もいるだろう。確かに、男子の中でも可愛い
と評判の生徒はいるようだから」
「あれ、あの高原真南でも男の子に興味があるんだ」
「あの、とは失礼な。異体、という事では昔から興味がある」
「……あ、そ」
 長いみつ編みがゆらゆらと揺れる。高原真南は鳴海会長と並ぶと小学生のようだ。
それこそアリスのようだが、彼女には重大な欠点がある。
 セリフというものが読めないのだ。
「今年も私は占いの館に出店するようにと呼ばれている。無理強いをして訴えられない
程度にやるべし」
「はいよ、その辺は任しといて」
 鳴海は笑みを深くした。
「もうちゃんと本人には言い渡してあるから」

 言い渡された方は文句を言いながらも、放課後誰もいない教室で、ちゃくちゃくと台
本を読み込んでいる。
「ぁー朝比奈聖ィ!」
 ぱあんっ! と人気の無い教室のドアが開けられた。
「前橋。……どうした?」
「どうしたもこうしたもねぇ! 手前生徒会主催の劇、アリス役をやるだとぉ?!」
 クラスの中で一番小さい朝比奈よりも小さく、いつもは猫を被っている前橋の本性を
知る人は少ない。しかし、朝比奈の事はライバルだと思っているらしく、周りに誰もい
ないと本性を現わすのだ。
「な、なんで知ってるんだよ」
「今廊下で佐藤先輩達が張り紙してんだよ! ……そうやって鳴海会長に取り入るつも
りだろ」
「会長に依頼されたんだよ! 俺だってやりたくてやってる訳じゃない。あんたがやり
たいんなら会長に直訴すりゃいいだろ」
「……会長、学校にいねぇんだよ。生徒会室に行って見れば代理の副会長が笑いながら
『今日は学校に来ていないのよ』とかほざきやがる。センコーに訊いてみりゃ登校して
ちゃんと授業受けてるらしいのによ。……実は存在しないとかいうオチじゃないだろうな」
 なるほど。彼は副会長が女装した会長だという事を知らないらしい。朝比奈は深くた
め息をついた。どうやら役を降りる事はできないようだ。
「諦めろ、少年。副会長が会わせないって事は、そういう事なんだから」
 ふいに教室の外から声がする。高めの声の主は、生徒会書記の高原だ。
「あ、あれ? 高原先輩。何の事ですかぁー?」
「……繕わなくとも良い。副会長は直接会長から言うよりもショックが小さいと思って
伝えたのだから。朝比奈に当たるのは間違っている」
「で、でも! 俺じゃなくて朝比奈が選ばれるなんておかしい。絶対俺の方が演技力も
あるし」
「演技力が無いから良いんだよ」
 高原の後ろから、背の高いすらりとした青年が現れた。
「私達は演劇を志しているわけではない。だからその分、初々しさを求められているん
だよ。前橋宙(ちひろ)君。先日は失礼したね。ちょうど出ていたものだから」
 にこりと優雅に笑う鳴海はどうみても普通の青年にしか見えない。
「な、鳴海会長……どうして気付けなかったんだ?」
「私と鳴海は特殊な家に生まれ、特殊な鍛え方をされている。しかも鳴海は舞いを習い
、振る舞いすら自由に切り替える事ができるから気配を消す事など動作も無いのだ」
 高原は淡々とかわいい声で言った。
「そういう訳なんだよ、前橋君。大丈夫、君の事は誰にも言わないから」
 薄ら寒い笑いを浮かべる鳴海に少し恐怖を感じつつ、前橋は教室を出ていく。
「くっそ。この俺がこんな失態を……」
 その言葉を聞き止めた高原は、絶妙なボケを発揮した。
「失態……失笑を買うような状態?」 

 文化祭二日目。一般の来場者と生徒達が会場を埋め尽くす。手芸部の女の子達が作っ
たという衣装に袖を通しながら、朝比奈は緊張していた。劇の事もあるが、部活の先輩、
佐藤春樹は一体何を企んでいるのか心配だからだ。
「聖君」
 振り返ると、真っ赤なハートをたくさんあしらった衣装を抱え、清楚な白いワンピー
スを着た会長が笑っている。彼はアリスの姉とハートの女王の二役を演じるのだ。
「本当に頑張ってくれた。後は本番、しっかり演じてくれれば良いから。お礼に、何か
プレゼントさせてもらうよ。何が良いか考えておいてね」
 にやり、と笑う会長はいつもと変わらない。やはり会長は女装をしている時の方が活
き活きとしている。
「じゃ、ボクは準備があるから」
 視界の端にウサギ耳のカチューシャをつけた皐月先輩の姿も見えた。
 ついに、幕が上がる――。 

「面白かったねー、生徒会の劇!」
「朝比奈君可愛かった〜。皐月先輩もウサギ似合ってたし。鳴海さんははまり役!」
「でもそれより、春樹君のあの格好! すごかったよね」
「ほんと」
 後片付けをしていると、周りの女子生徒の声が聞こえて来た。今年もなかなか好評だ
ったらしい、と高原は胸を撫で下ろす。それにしても、春樹というのは二年の双子兄だ
ったと思ったが、一体どうしたというのだろう。
「たっかはら先輩!」
 ぽん、と肩を叩いたのはその春樹だった。
「ああ。何か?」
「会長が、後片付けが終わり次第、屋上に集まるようにって。ダンパの準備をするらし
いです」
「それは……ありがとう。今終わったから行く」
 そう言ってから、高原は少し考えて彼に声をかけた。
「……春樹は、ダンスの相手は決まっているのか?」
「朝比奈アリスと踊ろうかと。先輩は?」
「まだ決めていない。……最後の年ぐらい誰かと踊って見ようかと思って」
「会長は?」
「副会長として男子と踊る約束を取りつけていた」
 なるほど、と春樹は一人頷く。高原は何となく寂しいらしい。周りの皆はパートナー
がいるのに、自分は一人。それがつまらないのだろう。
「だったら、一曲踊ってみます?」
 素直にこくりと頷き、高原はふわりと笑った。
「できたらお付き合い頂きたい」
 それはまるで、花がほころぶような幽かな笑顔。 

 その後。見回りをする高原と共に校舎を回っていた春樹と朝比奈は、皐月と夏樹のフ
ォークダンスを偶然目撃し、顔を見合わせてにやりとした。
 帰宅後、夏樹がどのように兄からからかわれたかは、高原も朝比奈も知らない。
 ただ……誰かと踊るフォークダンスは、それなりに楽しい、と二人は感じていた。



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