コートの男(中編)


 ドアを開けリビングに顔を出すと、いつものように母親が出迎えてくれた。

「お帰り。遅かったのね」

「何か変な奴に捕まっちゃってさ。すぐ着替えてくるよ」

 夕食がほぼ完成しているのを確認すると階段を駆け上る。

 ネクタイを外しながら部屋のドアを開け―――

「や。お帰り」

 即座に閉めた。

 何だ今の?

 何か見えた。何か居た。

 そんな馬鹿な。俺は確かにカギを閉めたはずだ。

 となると可能なのは窓からの侵入だが……

 そこまで考えて首を横に振る。窓のカギもきっちり閉めてある。ましてここは二階だ。

 残る可能性はただ一つ。

 目の錯覚。

 俺は息を整え、もう一度ドアを開けた。自分の目の正常さを呪いたくなる。

「あんた……どうやって……」

「おれにできないことはないって言わなかったかな」

 彼は不敵に笑うと乱れてもいない黒コートを正した。

「出てけよ。警察呼ぶぞ」

 自分的に全力で睨んでやったのだが、男は少しも表情を変えない。

「だから、おれは怪しい者じゃないよ」

「説得力ねーんだよっ」

 階下から母の声がする。俺は「何でもない」と答えるとドアを閉め、カギをかけた。

「母親とは仲が良いのかな」

「そんなこと、あんたに関係ないだろ」

「……願いはみつかったかい?」

「しつこい。叶えてもらいたいもんなんてないよ」

「うーん。それは非常に困るなぁ」

 非常に困っているのはこっちの方だ。

 早く出てけ。

 男は前髪をかきあげ、青い瞳を天井に向ける。

「一応仕事だからな。君の願いを叶えずに退くわけにはいかない」

「仕事ってなんだよ」

「君はまだ知らない方がいいんじゃないかな」

「何だよ。それ……」

 視界が僅かに揺れる。右足を一歩下げて何とかバランスを保った。

 何だろう。気分が悪い。

 この男と話していると、何だか他の世界に迷い込んでしまったような感覚に陥るのだ。

「と、いうわけで。おれは君が願いを見つけるまでここの居させてもらうから。よろしく」

「はぁ!?何無茶なこと言ってんだよっ」

「だいじょーぶだいじょーぶ。家族に見つからない自信ならある」

「そういう問題じゃねーだろ!」

 俺の言い分はまるっきり無視し、黒コートはテレビをつけくつろぎ始めてしまう。何を

言っても無駄そうだ。

 いっそのこと窓から突き落としてやろうか。

 母が呼ぶ声が聞こえてきたので、俺は慌ててブレザーを脱ぎ部屋を出た。

 男に「絶対部屋を出るな」と釘をさすことは忘れなかったが。

 

 このドアを開けた時、誰もいなければいい。そんな願望もものの1秒で崩れ落ちた。

 まだいる。いやがる。しかもくつろぎモード200%だ。

「どこから菓子なんて持ってきたんだよ?」

「おれのコートは四次元空間に繋がってるんだ。って言ったら信じるか?」

「信じねぇ」

 仏頂面で応えてやると、黒コートはせんべいをかじってくすくすと笑った。

 何がそんなにおかしいんだ。

 勉強机の椅子を引き、教科書を開く。

「お、偉いな。勉強か?」

「邪魔すんなよ。一週間後にテストがあるんだ」

「一週間……ね。微妙な線だな」

「……何の話だよ」

 俺は椅子を半回転させ、男を睨んだ。話が全然噛み合っていない。

「…あんたさ―――」

「ストップ。あんたはやめてほしいなぁ。何か他人行儀」

「他人じゃん」

「まぁ、気分の問題だよ」

「だって、名前忘れたんだろ?」

 好きに呼べと言われても正直困る。俺は唇に手をあて、しばし考え込んだ。

「……あんた黒いからクロでいい?」

 結局適当な結論を出すとクロはクククとおかしそうに笑った。

「何だよ」

「いや……どうせならくーちゃんがいいな、と」

「誰が呼ぶか」

 馬鹿らしくなったので、椅子を元に戻す。シャーペンを握り問題を解こうとして、ふと

机の上にあるはずのものがなくなっていることに気づいた。

「この女(ひと)は誰かな?」

「っ!!」

 慌てて後ろを振り返る。クロの手には木でできた写真立て―――

「っ返せよ!」

 伸ばした手は写真立ての角をかすって空振った。

「母親ではないよな?」

「…………母親だよ」

「でもこの家にいる母親とは違う人のようだけど?」

 いつ顔なんて見たんだ。

 疑問に思ったが、この男には常識が通用しない。突っ込むのはやめにする。

「あんたに関係ないだろ」

「関係あるかないかは聞き手が決めることだ」

「…」

 やめてくれ。

 そこは触れてほしくない。

 それでも…この男には話さなくてはいけない。

 そんな気がした。

「……今の母さんは俺の叔母だった女(ひと)だよ」

「どういうことかな?」

「俺が四歳の時、親父が死んだ。一人で俺を育てていく自信がなかった母さんは、叔母夫

婦に俺を託したってわけ」

「なるほど」

 クロは普通に頷く。何だか始めから知っていたかのような口調だ。

 ……知っていたのかもしれない。何となくだけど、そう思う。

「……関係ある話だったか?」

「それはまぁ、君次第かな」

「俺次第?」

 どういう意味だろう。

 クロは唐突に立ちあがり、俺の目を真っ直ぐに見た。

「会いたいと思わないのか?」

「思わないね」

 俺は即答する。以前友人にきかれた時もそう応えた。

「今更会いたいなんて思うわけないじゃん。今の家族が好きだし、充分幸せなんだ。……

幸せなんだよ」

「なら何で写真なんて飾ってるのかな」

「それは……どうだっていいだろ」

「どうでもよかったらきいてないさ」

 何なんだこいつ。どうして人の心に土足で踏み込むような真似をする?

 放っておいてほしい。俺は今のままでいいんだ。なのに何で……

「君の真の願いは、母親に会うことじゃないのか?」

 何でそういうこと言うんだよ……

「違う……。それだけは絶対に違う……」

「そう思い込もうとするのは君の自由だが」

「思い込みじゃない!」

 半ば自棄になって怒鳴っていた。

 会いたいとは思わない。いや、会いたくなかった。

 あんな目、見たくないから。

「……けよ」

 俯き、声を搾り出す。

「出てけよ。あんたといるとイライラする……」

「…そこまで言われてここにいる理由はないが……。一ついいかな」

「何だよ」

「一週間以内に心を決めないと後悔することになる」

「は?」

 どういう意味かと顔を上げた時、すでにクロの姿はなかった。

 消えた……?

「夢……だったのかな」

 そうだったらいい。

 首の後ろに手を持っていくと、じっとりと嫌な汗をかいていた。


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