コートの男(前編)


 昔、誰かが言っていた。

 交通事故か何かで即死したとする。

 一瞬で死ねたのなら、痛みも何も感じない。

 すると、自分が死んだことに気づかないことがあるらしいのだ。

 彼は…あるいは彼女はそのまま今まで通りの生活を続ける。

 俺はふと疑問に思った。

 誰がそれを止めてやるのだろう?

 誰が気づかせてやるのだろう?

 彼らは永遠にさ迷い続けるのだろうか?

 まだ幼かった俺は何だか妙に恐くなって泣いてしまった。

 それはただそれだけの話だったのだけれど―――

 

 夏になると必ず一つや二つや三つや百個くらい出てくるのが怪談話だ。

 信憑性のあるものから、どう考えても嘘だとわかる馬鹿らしいものまで様々。

 その日も俺は数人の友人に混じって、怪談好きのクラスメイトの話を聞いていた。

「知ってるか?この辺で度々目撃されてる黒コートの男の話」

「あー知ってる知ってる。真夏のまっ昼間から暑苦しい変質者のことだろ」

 その話は俺も聞いたことがあった。

 黒いコートに黒い帽子を深くかぶった二十代前半ほどの男だという。異様な雰囲気を放

っているという噂―――と、いうより真夏にそんな暑苦しい格好をしている時点で頭が狂

ってるんじゃないかと思うのだが、これといって問題は起こしていないようだ。

 どこからともなく現れて、気づくといなくなっている。男がどこで何をしているのか知

る者はいない。

 怪談おたく・藤谷はちちちと指を振った。

「変質者なんて低俗な。奴は変質者なんかじゃないよ」

「じゃあ何」

 藤谷が人目を気にするように少しだけ身をかがめる。皆が身を乗り出し、次の言葉を待

った。

「死神」

「はぁ?」

 間の抜けた声が飛び交う。俺も溜息をついた。どうやら今日は馬鹿らしい方だったらし

い。

「黒=死神って単純過ぎじゃねーの?」

「まぁまぁ、あせりなさんな古賀くん。いくらおれでもそれだけで死神だなんて言わない

よ」

 古賀というのは俺の名字。いつもされないくん付けで呼ばれたのが気色悪くて、俺は思

わず顔をしかめた。藤谷はかまわず続ける。

「おれの友達の話なんだけどさ。近所に住んでる女の子が黒コートと話してるのを見たら

しいんだ。それから数日後、その女の子が死体で発見されたんだってさ」

「偶然だろ」

 だいたい「友達の話」ってのが胡散臭い。間接的な話は信じるな。人生の教訓の一つだ。

「まだまだあるぞー。目が血のように赤かっただとか、牙がはえてただとか、コートの中

身が異次元に繋がってるだとか」

「阿呆か」

 途端に笑いが巻き起こる。女の子の話で少し信じかけてた奴も今の発言で単なる噂に過

ぎないと気づいたようだ。

 藤谷自身も本気ではなかったらしく、「何だよー」と言いつつも半笑いである。

 本当にどこにでもある噂話だ。皆、話題に飢えてる証拠だよな。少しでも不可解なこと

があると、すぐに超常現象や怪談に繋げたがるんだ。

 黒コートの男。

 俺は何となくどんな人物なのかを想像しつつ、昼休み終了のチャイムを待った。

 

 自分が不幸だと思ったことは無い。

 確かに両親と血の繋がりはないけれど。

 そのことで少しだけ世間の目が冷たかったりもするけれど。

 それでも、普通に学校に行って、家に帰れば温かい食事と家族の笑顔がある。

 これ以上に幸せなことなんてないんじゃないだろうか。

 

 黒コートに黒帽子をかぶった男なんて、世界中探せば無限にいると思う。だが、真夏の

太陽の下でそんな格好をしている人間はかなり限られてくるだろう。

 変人か、変質者か、犯罪がらみか。

 何にせよ、関って良い事はありそうにない。

 だから俺はその時も素通りしようと思っていた。思っていたのだが―――

「古賀朱鷺(とき)くん」

 立ち止まらざるをえなかった。慌てて後ろを振りかえると男は口の端を少し上げてみせ

た。背中に寒気がはしり、一歩男から遠ざかる。

「何で……俺の名前……」

「何を言ってる。今朝会ったばかりじゃないか」

「はあ?」

 今朝は確か遅刻寸前で全力疾走していたはずだ。人と接する暇などまったく持っていな

かった。と、いうよりこんな目立つ男と会っていれば嫌でも覚えているはずである。

「あのさ俺、あんたのことなんて知らねーんだけど。もしかしてストーカー?」

 だとしたらすぐさま逃げてやる。俺は足に力を込めた。

「まさか。そんなにおれが怪しい奴に見えるか?」

「見える」 

 頼むから自分の姿を鏡で見て欲しい。わかってやってるなら本格的に変人だ。

「そっかぁ。覚えていないのか。困ったな」

「だからあんたは誰なんだよ」

「誰……ときかれても明確には答えられないな。名前も随分前に忘れてしまったから君の

好きに呼べばいい」

 名前を忘れた?

 突っ込もうと思ったが、男が帽子を脱ぎ妙に優雅な礼をしたので言葉を紡げなくなって

しまった。

 眩しいくらいの金髪。青い瞳。整い過ぎている顔に唖然とする。俺は今までテレビです

ら、ここまで綺麗な顔の人間を見たことが無い。

「えっと……」

「それで朱鷺くん。これは今朝も言ったことなんだけど、君の願いを一つだけ叶えてあげ

よう。さぁ、何がいい?」

「はぁ?」

 願いを一つだけ叶えるだって?物語のランプの精じゃあるまいし。

 やっぱりこの男、本格的に頭がおかしいんだ。こういうのは無視するに限る。

「…逃げる気だね?」

「う…」

 先手を取られ、俺は動きを止めるしかなかった。男は何がおかしいのか目を細め笑って

いる。

「後悔すると思うけど」

「後悔って……何をだよ」

「さぁ、何だろうね」

 何か……嫌な予感がしてきた。

 この男の暗示にかかってしまったのかもしれない。今無視してしまったら、本当に一生

後悔するような気がする。

 俺は唾を飲もうとして失敗した。口の中が渇ききっていたのだ。

「…願いって……何でも叶えられるわけ?」

「自慢じゃないが、おれに不可能はない」

 大きくでるじゃないか。しかも自信満々。

 信じてはいなかったものの、俺は願いを言ってみることにした。

「じゃあ、金持ちにしてよ」

「ありがちな上に小っさい願いだな〜」

「うるせぇ」

 だってそれしか思いつかなかったんだ。仕方ないじゃないか。

 胸の奥にしまった願いは出せない。出しちゃいけない。

「残念ながらその願いは叶えられないな」

 男は肩をすくめながら言う。

「何だよ。やっぱインチキじゃん」

 端から信じていなかったものの微妙にショックだ。顔をしかめる俺に男は首を横に振っ

た。

「失礼な。叶えられない願いはないが、叶えるわけにはいかない願いなら存在する」

「叶えるわけにはいかない……?」

「と、いうよりな。おれが叶えていい願いって一つしかないわけだよ」

「まわりくどい。はっきり言えよ」

 俺が少々イライラしつつ急かすと、男は「つまり」と人差し指を突きつけてくる。

「君が真に一番に望むこと。それ以外は例え可能であっても叶えられない」

「真に……望むこと…?」

「そ。今の願いは君の一番じゃない。違ったかな?」

 そんなの当たり前だ。適当に思いついたことを言ったんだから。

黒コートは手のひらを耳にあて、保育士のような口調で続けた。

「さーて、君が真に望むことは何かな?お兄さんに打ち明けてごらん」

「そんなの……急にきかれてもわかんねーよ」

「それは困る。無理してでも出せ」

「あんた無茶苦茶だぞ」

 無理して出す願いって、すでに一番じゃないような気がする。付き合うのが馬鹿らしく

なってきた。

「もういーよ。俺、帰るから」

 背を向け歩き出したが、先ほどのように男は止めたりしなかった。やはり俺はからかわ

れていたらしい。

 時計を見ると午後六時。いつもより大分遅くなってしまった。

 俺は早足で帰路を急いだ。


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