桜舞う場所で -烏丸鈴鹿side-


 毎年行われる芸術鑑賞会。去年は確かグラスバンド部と、アメリカ・ワシントン州のガ
ーフィールドという学校のオーケストラと親善演奏会だった。
 そして今年は―――
「つまんねぇ」
「あー。そうだろうなぁ」
 今年は桜美術館の見学。見ることができない俺にとって、これほど退屈なものはない。
「だいたい美術品に触れるなって何なんだよ。美術館ってこれだからヤだ。俺達に全然優
しくねーし」
「まぁまぁ、おれの解説にでも耳を傾けてだなー」
「お前下手。失格」
 「鈴鹿ぁ〜」と情けない声を出す友人は無視し、周りの音に耳を傾けた。微かに聞こえ
てくるゆったりとしたBGMが心地良い。それに被さる生徒の声。
「ちーちゃん、一緒に陶芸コーナー行かない?」
 ちーちゃん。問いかけの後の返事がないのは彼女が話せないからだろう。
 海老名千乃。D組の生徒だ。
 どうも最近の俺はこの名前に反応してしまうらしい。
「……まぁ、海老名は楽しいんだろうな。こういうの」
 何せ彼女は美術部だ。色々なコンクールで入賞しているし、本当に絵が好きなのだろう。
「何?鈴鹿、海老名に気があんの?」
「そういうわけじゃないけどさ」
 ただ何となく気になるんだ。数ヶ月前、美術室の前で鉛筆がキャンパス上をはしる音を
聞いてから。

「千乃〜。いつまで描いてるの?そろそろ帰ろうよー」

 海老名千乃という名前は元々知っていた。よく表彰されてたし。喋らないってことで有
名だったし。

「え?もうちょっと描いてく?ん〜…じゃあ、先に帰らせてもらうね。ちゃんと帰るの
よ!」

 それからだ。俺は放課後、決まった時間に美術室の前を通るようになった。海老名がそ
こにいるのは部活終了後の六時頃。
 鉛筆でデッサンをする音。筆をはしらせる音。
 彼女が奏でる音楽に耳をすます。それはとても心地よくて。
 彼女はどんな絵を描くのだろう?
 ただ、そればかりが気になったんだ。

「あ、俺回る前にトイレ行ってくるわ」
「一人で大丈夫か?」
「へーきへーき。おせっかいは嫌いだって言ったよな?」
 笑ってみせると、友人はトイレの場所を俺に教えた。
 それはもう詳し過ぎるくらいに。

 友達は皆いい奴ばかりだ。過保護な部分があったとしても、それは俺のことを考えてく
れてるわけだから……まぁ、喜ぶべきなんだろうな。俺は皆が思っているほど、何もでき
ないわけじゃないんだけど。
 そんなことを考えながら個室のドアを開ける。
「っあ゛ー、すっきりしたー。って、うわぁぁぁ!」
 何かある!
 俺は避けきれずにそれに体当たりをしてしまった。そのまま倒れこむ。
「わ、なんだ?あ、人?ごめんなさい、俺目ェ見えなくて……」
 立ちあがろうとすると、いい匂いが鼻をくすぐった。シャンプーの匂いか何かだろうか。
 ん?ちょっと待てよ……この柔らかい感じって……
「あれ?もしかして、男じゃない……?」
 俺は慌てて立ちあがった。その人物に手を差し出す。
「大丈夫ですか?なんで女の人がいるのかわかんないけど……」
 掴んだ手を引っ張り、彼女を立たせてやる。どこか怪我はしていないだろうか。
「思いっきり乗っちゃってごめんなさい。立てます?」
 彼女の体を支えつつ尋ねる。
 返事がない。
 代わりに手の平を彼女の指が滑った。「はい」と。
「……喋れないの? もしかして、D組の海老名、さん?」
 まさか、と思った。何で彼女がこんな所にいるんだ。あせりそうになるのを何とか抑え
る。彼女はまた「はい」と書いてきた。そしてまた何か書き始めた。何だろう。ここにい
る理由だろうか。
「……『ここから』、『美術館』、『壁』、『見える』……『桜』、『タイル』、『絵』……」
 なるほど。ここから美術館の壁が見えるんだ。桜のタイル絵の。
 彼女の指がわずかに手から離れた。何が言いたいのか、雰囲気でわかる。
「何で読めるのかって?いつもこうやって漢字の形とか図形の形を教えてもらうんだ」
 笑ってみせると彼女は少し間を置き、また手の平に指を滑らせてきた。
「ん? ……『桜』、『吹雪』……『満開』、『の』、『桜』……『風』、『舞う』、『花びら』…
…」
 桜吹雪。
 満開の桜。
 風に舞う花びら。
 想像してみて、俺は胸が一杯になった。
「綺麗なんだろうね」
 そんな景色を彼女は今、見ているのだ。俺には見ることができないけれど。それでもわ
かる。きっと彼女が描く絵もこれと同じくらい綺麗に違いない。何の根拠もないけれど、
そう思った。
「いいね。俺も、桜が舞う音って、結構好きなんだ」
 ひらひらと桜が舞う。綺麗な音じゃないか。
 ふと彼女の口から息が漏れる音がした。
 笑った。
 海老名が笑ったんだ。
 俺は妙に嬉しくなる。
「さーて、そろそろ戻ろっか?海老名さんも男子トイレにいたことがばれたら色々マズイ
だろうし」
 海老名は俺の手を引いた。誘導してくれる気らしい。普段は拒否するのだが、今回は甘
えることにする。
 彼女の手の平が凄く温かかったから。
「今度さ。また二人でこよう」
 彼女は返事の代わりに手を握り締めてくれた。

 最近、海老名に関して気になることがある。
 彼女はどんな顔で笑うのだろう。
 それを知る術は俺にはないけれど。
 それでも俺を見る彼女の目が少しでも笑っていてくれたらいいと、そう思うんだ。



戻る