み(後編)


「昨日はよく眠れた?」

「はい。おかげさまで」

 ヤマトの問いに、碧音はにこやかに応えた。彼女は管理人室の一室に寝泊りすることに

なったのだ。

「良かった。固いベッドだから君には合わないかなって思ったんだけど…」

「あら、私どこででも寝れますよ」

「そう。それじゃあ、僕ちょっと光先達の所に行って来るから君はその辺散歩でもしてて

よ」

「あ、はい」

 ヤマトの背中を見送ってから、碧音は大きく息を吸い込んだ。

「気持ち良いです」

 木々のざわめき、草の匂い。

 今までの生活では味わえなかったものだ。

 

”碧音。彼らを救えるのは彼らの痛みを知っているお前しかいないんだ。どうか……頼む”

 

 ―――わかってますわ、兄様。

 痛み。

 彼らの心の奥に巣くう深い深い痛み。

 それを癒す為なら何でもしよう。

 かつて自分がそうしてもらったように―――。

「あ」

 前方の木の下に真人の後ろ姿を見つけて、碧音は足を止めた。しゃがみこんで、何をし

ているのだろう?

「どうしたんですか?」

「うわっ!?お……お姉ちゃん?」

「あ……」

 碧音の心臓が一度だけ大きく鳴った。

 真人の両手の中には血で染まった小鳥―――

「…巣から落ちちゃったみたいなんだ」

「そうですか……。痛かったでしょうね…」

「痛い……」

「とりあえず埋めてあげましょう」

 碧音の提案に真人は小さく頷いた。

 

 小さな山を造って、そこに花を添えた。屈み込んだ碧音が目を閉じて、黙祷している。

「……ねぇ、痛いってどんな気持ち?」

「え?」

 碧音は目を開け顔を上げた。

「みんな言うんだ。手を切ったり転んだり叩かれたりすると”痛い”って。でも僕にはわ

からない。感じたことがない。みんなに訊いてみても”真人はそういう変異なんだから仕

方ない”、”痛みなんて感じない方が便利じゃないか”って。何か……一人だけ置いてかれ

てるみたいで嫌なんだ…」

 わからない。

 いくら考えてもわからない感覚。

 みんなにとっては当たり前のこと。

 みんなが羨ましい。

 取り残されてる自分が嫌だ。

「ねぇ、どんな気持ち?」

「それは……」

 碧音は一瞬間を置いた。

「バカ」

「へ……?」

「チビっ。お前なんか消えてなくなれ!」

「な……っ」

 変貌した碧音に、真人は目を見開いた。

 何だ?

 何故こんなことを言われなければならない?

 こんな……

「……今、どう思いました?」

 柔らかい口調に戻る碧音。

「え…」

「どう思いましたか?」

「…」

 真人は胸をおさえる。

「何か…苦しくて、悲しくなった……」

 それを聞いて碧音はにっこり微笑んだ。

「それが”痛い”っていう気持ちです」

「これが……?」

 真人は瞬きをした。

 これが?

 この気持ちが痛み―――?

「大丈夫です。真人さんはちゃんと”痛い”という気持ちを知っているじゃないですか。

皆さんに置いてかれてなんていませんわ」

「…」

 知っている。

 僕は痛みを知っている。

 そう思うと妙に嬉しくて―――

「う……」

 涙が溢れた。

 微笑む碧音の胸に飛びこむ。碧音は真人の背中を軽く叩いた。

「”痛み”は誰だって持ってます。人によって形は様々です。でも…絶対に忘れちゃいけ

ない。なくしちゃいけないモノなんですよ」

「お姉ちゃん……」

 ”痛み”があるから人は強くなる。成長できる。もしも何も感じなくなったら、それは

空っぽの人形だ。

「うん……」

 真人は頷き、笑った。

 吹き抜ける風がやけに気持ち良かった。

 

 碧音に巻いてもらった手のひらの包帯を見て、自然に笑みをもらす。

「へへ…」

「真人、何かあった?」

 後ろからかかった声に真人は振り返った。

「稲置お姉ちゃん。何で?」

「嬉しそうだから」

「そ…そう?」

 真人は真顔に戻ろうとしたが無理だった。どうしても顔がにやけてしまう。

「あのね、碧音お姉ちゃんが僕にも痛みはあるって教えてくれたんだ」

「…ふ〜ん…。それは良かった」

 稲置の口調にトゲを感じ――まぁ、いつも冷たいのだが――真人は少しあせった。

「碧音お姉ちゃん、いい人だよ。嫌いになっちゃ……」

「別に嫌いじゃない」

「ほんと?」

「ただ眼中にないだけ」

「……」

 困ったような顔をする真人。稲置はそれを冷めた瞳で一瞥すると踵を返した。

 ――そう、眼中にない。

 あんな女に何が変えられるというのだろう。

 友達になるだなんて。

 ――ねぇ、碧音さん。君は私の変異を知ってもそんなことが言える?

 自嘲気味な笑みを浮かべつつ、稲置は足下のバッタを踏み潰した。


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