桜舞う場所で -海老名千乃side-


 美術鑑賞会、というのが年間行事の中に組み込まれている。
 去年は確かグラスバンド部と、アメリカ・ワシントン州のなんとか、という学校のオーケストラと
親善演奏会だったはず。
「なんとか、じゃなくて『ガーフィールド』。名門だぞ、有名だろ?」
 ふと聞こえた声に、千乃は顔を上げた。自分の思考についての言葉だろうかと聞こえた方を見る
と、寝癖のついた黒い髪がひょこひょこと揺れている。彼は……E組の烏丸鈴鹿、だったと思う。
自分こそ、この学校では有名だろうに。
 彼は目が全く見えないらしい。だけれども、とても明るくムードメーカーだという話だ。
「有名っておまえん中では、だろ? ホント、クラシックとか好きだよなー鈴鹿は」
「クラシックは形式だっつってんの。俺が好きなのは癒し系。五月蝿くばばーん! ってやるの
じゃなくって、静かにさらら〜、って流れるやつ」
「はいはい、分かったから前行ってね、烏丸」
 後ろの女子に急かされて、彼は友達に手を引かれて進む。千乃は軽く息を吐いて前を向いた。
 千乃は以前に言葉を無くした。どうしてかは良く分からない。分からない。けれど、言葉を音に
する事ができない。
「ちーちゃん、どうしたの? 何かあった?」
 なかなか歩き出さない千乃に、後ろの女子が心配そうに肩を叩く。
 千乃は首を横に振り、足を前に進ませた。
 今日の芸術鑑賞会は、学校の近くにある「桜美術館」だ。桜に関する美術品が、数多く展示
されている。
 美術部に所属し、自身も数多くの賞を取っている千乃は、美術館めぐりが趣味だ。もちろんこ
の美術館にも足を運んだ事がある。
「えー、では諸君。静かに鑑賞する事。良いですね。……では、自由解散」
 学年主任の声で、生徒は静かに、でも足早に目当ての場所へと移動し始める。
「ちーちゃん、一緒に陶芸コーナーに行ってみない?」
 何人かの女子が声を掛けて来たが、千乃は申し訳なさそうに首を横に振った。
 彼女には、ここに来ると必ず行く場所があるのだ。
 ふと、周りを見渡せば、盲目の行動屋は何処かへ消え去っていた。

       *************

 千乃はそおっと中を覗く。そして誰もその中にいない事を確認すると、男子トイレの中に足を
踏み入れた。桜色にうっすらと空の青を映したような色のタイルが敷き詰められている事や、
個室が少ない事を除けば大体女子トイレと同じだ。
 入って正面の、小さな換気用の硝子窓が少し開けられている。千乃は迷わずそこへ向かい、
窓を全開にした。爽やかな風が吹き抜け、千乃の髪を舞い上がらせた。
 じゃー。がちゃっ。
 その幻想的な様子は、水洗トイレの流れる音で台無しになる。
「っあ゛ー、すっきりしたー。って、うわぁぁぁ!」
「ぁ……!」
 その個室から出て来た少年は、あろう事か千乃の体に体当たりをして倒れ込んだ。
「わ、なんだ? あ、人? ごめんなさい、俺目ェ見えなくて……あれ? もしかして、男じゃない……?」
 その言葉に、千乃ははっとする。良く見ればそれは烏丸鈴鹿だった。
「大丈夫ですか? なんで女の人がいるのかわかんないけど……」
 千乃は差し出された手につかまって立ち上がる。
「思いっきり乗っちゃってごめんなさい。立てます?」
 首を縦に振って、千乃は気付いた。
 千乃は、彼に言葉を伝える事は出来ないのだ。
 少し逡巡してから、彼女は鈴鹿の手に「はい」とゆっくり書いた。
「……喋れないの? もしかして、D組の海老名、さん?」
 今度も「はい」と書き、千乃はまたゆっくりとこの場所にいた理由を書く。
「………『ここから』、『美術館』、『壁』、『見える』……『桜』、『タイル』、『絵』……」
 ひとつづつ読み上げる鈴鹿に、千乃は驚いた。手に書かれた文字を読み取るのは、
慣れていないととても難しい。
「何で読めるのかって? いつもこうやって漢字の形とか図形の形を教えてもらうんだ」鈴鹿は笑う。
「でも、海老名さんがこんな大胆な事をしてまで見に来るタイルの絵って、どんなのなんだろうね。見たかったなぁ」
 千乃はその笑顔にしばし見とれた。あまりにも邪気の無い笑顔。その透明さに、呼吸も忘れる。 
そして、指を彼の手のひらに滑らせた。
「ん? ………『桜』、『吹雪』……『満開』、『の』、『桜』……『風』、『舞う』、『花びら』………綺麗なんだろうね」
 そう。昔、父が見せてくれたこの絵。小さな頃、母は弟の世話をしていて、家の中はとても
退屈だった。そんな時、父と一緒に散歩がてらこの美術館に入った。途中で尿意を催し、父に
連れられて入ったのは男子トイレ。しかし父は、にこりと笑ってこのモザイクタイルを見せてくれたのだ。
 なぜかこのタイル絵は裏森に面していて、男子トイレからしか見る事が出来ないようになってる。
だから千乃は、ここに来る度に人目を忍んでこの絵に会いに来るのだ。
「いいね。俺も、桜が舞う音って、結構好きなんだ」
 千乃は少し嬉しかった。
 彼がそっとトイレから通路を見渡し、千乃が男子トイレから出て来た事がバレないように耳を
澄ませてくれて、集合場所まで肩を貸して行った。
 それから、千乃は彼をよく見つけるようになった。

 視界の隅には、笑顔の烏丸鈴鹿がいる。



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