の明日に君がいれば


 真っ暗だ。何も見えやしない。暗闇はどうしてこうも人を不安にさせるのだろう。
 何か生温かいものが口の中に流れこんできてただひたすらにそれを追い出そうとした。
「あーっ、ちょっと!吐いちゃ駄目じゃないっ」
「んあ・・・・・・?」
 そこで少し視界が明るくなった。自分が目を開いたのだと認識するのに数秒。口を塞が
れていることに気付くのに数秒。成す術なく、口の中のものを飲み込む。
「げほっげほっ」
「うわっヤダ、汚い!唾飛ばさないでよっ」
「うえ・・・?」
 咳が収まってからやっと、その少女の存在に気付いた。赤いコップを手に持ち、怒った
ような顔でこちらを見つめている。いや、見下ろしている?
 そうか。俺は仰向けに寝転がっているのか。
 目の前の少女はなかなかの器量良し。俺より五つは年下だろう。
「・・・誰、お前。ここどこだ・・・・・・?」
 まるで記憶喪失者の台詞だが、「私は誰」が出ないだけマシだろう。大丈夫。俺はどこ
の誰なのかちゃんと思い出せる。まあ、軽く記憶障害ではあるが。
「それ、本気で言ってるわけ?」
「こんなわけわからん状況で冗談なんか言えるかっつうの」
「・・・御尤も」
 少女は納得したのか肩を竦めて見せた。
「名前は?思い出せる?」
「佐久間良哉」
「歳は?」
「二十一」
「仕事は?何してたの?」
「・・・」
 それは簡単に口にできない。口にできない理由がある。
「・・・じゃあ、ここはどこ?」
「ここは・・・・・・」
 辺りを見まわして、はっとした。小さなキッチン。古びた湯沸し器。見慣れた会社の一
階にある給湯室だった。だんだんと頭にかかった靄のようなものが晴れていく。
 ああ、そうか。思い出した。
「・・・こんなに簡単に崩れるとは思わなかった」
「巻き込まれた身としては殺したくなる台詞ね」
 とにかく壊してやりたかった。このビルは古い上にいい加減な工事でできた為、一番大
きな柱を壊せば崩れてしまうのだと誰かから聞いた。それを夜中に忍び込んで実行に移し
ただけだ。何だ。頭を悩ませて思い出す程のことではないじゃないか。
 見事にビルは崩れたが、どうやら助かってしまったようである。舌打ちした。
「・・・ついてねえ・・・」
「それはこっちの台詞だわ」
「あ?」
 そういえば、まだわからないことがあった。
「で、お前は何なわけ?」
「巻き込まれた不幸な少女よ」
「そりゃ・・・悪かったな」
 素直に謝るしかない。
 元々何も巻き込みたくはなかったのだ。だから実行は誰もいない真夜中にし、放火も考
えたのだが、結局ビルを崩すことにした。これなら間違っても隣のビルに被害が及ぶこと
はないだろう。壊れるのは俺と、この救いようのない会社だけでいい。
「・・・・・・名前は」
「え?」
「お前の・・・名前だよ」
 気を失う前に切ったのか口の奥が痛かった。少々喋り辛いが問題はないか。
「・・・二ノ宮静音よ」
「いくつ」
「十六」
「高校生が真夜中に、こんなとこで何やってたんだよ」
「ヒミツ」
「あっそ」
 正直、そんなことはどうでも良かった。それよりも大きな問題は死ねなかったことだ。
 空回りもいいとこである。
「・・・お前、家に帰らないの?」
「あのねえ。状況見てから言ってくれる?」
「あ?」
 そこで初めて、周りの様子をきちんと観察した。崩れた壁や潰れた机で生め尽くされて
いる。
「閉じ込められてる・・・?」
「正解。良くできました」
「あ〜。そりゃあ、また・・・」
 厄介なことになったものだ。どこか脱出経路はないのだろうかと起き上がろうとする。
俺はいいとしても静音だけは逃がさなければ。
「・・・れ・・・?」
 違和感を覚え、顔をしかめた。右足が動かない。
「今頃気付いたの?引っ掛かっちゃってるのよ。無理に抜こうとしたら骨が折れるんじゃ
ない?」
 俺の右の足首から向こうが崩れたコンクリートと床の間に入り込み、抜こうにも抜けな
い状態になっていた。最悪だ。こんなの生殺し状態じゃないか。
「救出が来るのを待つしかないわね」「少なくとも朝までは来ないだろうけどな・・・」
 この辺り一帯は全て何かしらの会社や事務所の建物なのだ。夜中は本当に誰一人として
いなくなる。少し離れた所に住宅が何件かあるが、大きな音で目を覚ましたとしてもわざ
わざ見には来ないだろう。自分以外のものには無関心な人間ばかりが集まる街だ。誰かが
通勤してくるまで救出は望めないと俺は確信していた。
「朝までか・・・。なら問題ないわね」
 静音が笑顔を見せる。
「問題ないって・・・何が」
「だってここ、完全に真っ暗じゃないでしょ。光が漏れてるってことは、空気も入ってき
てるってことで、少なくとも窒息死することはないじゃない」
「・・・なるほどな」
 俺は少々感心した。この少女、こんな状況で冷静な上になかなか頭も良い。
「・・・今、何時かな」
「知らねえよ」
 俺の腕時計は午前一時二十二分で動きを止めている。どこかにぶつけて壊したらしい。
「お前さ。携帯とか持ってねえの?」
 誰かに連絡すれば、救出が早まるんじゃないか?
 俺はいいとしても、静音にしてみればこんな場所早く抜け出したいだろう。見知らぬ男
と二人きりっていうのも、良い気分ではないだろうし。
「持ってないわよ」
「使えない奴だな。今時のガキは皆持ってるもんじゃないのか?」
「家に置いてきたの!携帯くらい、あたしだって持ってる」
「ああ、そ」
 どの道使えないことに変わりはない。
「お兄さんは?」
「ん?」
「持ってないの、携帯」
「持ってたけど、どっか行った」
 静音が小さく「使えない」と呟いた。お互い様だ。
「・・・さっきの」
「何よ」
「さっき俺の口に何か入れなかったか?」
「ああ、これ?」
 静音が赤いコップを振って見せる。透明の液体が僅かに跳ねるのが見えた。
「ただのお湯よ。ポットにたまたま残ってたの。お兄さんが苦しそうにうめくから親切心
で飲ませてあげたんじゃない」
「そりゃ、どーも」
 大分無理矢理な飲ませ方だったような気もするが・・・。善意からくる行動だったよう
なので、文句は言わないことにした。
「俺はどれくらい寝ていた?」
「わかんない。でも三十分も寝てなかったと思うけど」
 と、いうことは今は深夜二時くらいか。朝まではまだまだある。どうしたものか。こう
いう時はとりあえず・・・・・・
「・・・寝るか」
「ええ!?ちょっと待ってよ。やめてよね。寂しいじゃないっ」
「お前も寝りゃあいいじゃん」
 静音は言葉を詰まらせ、難しそうな顔をした。
「安心しろよ。別に何もしやしねーからさ。俺、ガキに興味ないし」
 と、いうよりやろうにもできないし。ろくに身動きも取れない状態なのだ。できること
といえば上半身を起こすことくらいか。静音は小さな声で「違う」と呟く。
「そうじゃなくて、寝ちゃったら二度と目が覚めないような気がして・・・」
「はあ?窒息死する心配はないって言ったのはお前だろ」
「そうだけど・・・」
「わけわかんねえガキだな・・・」
 参った。こういう複雑な女は苦手だ。
「じゃあどうしろってんだよ。このままにらめっこか?」
「・・・話、して」
「あ?」
「何か、話してよ」
「・・・」
 話といっても・・・
「むかあーし、むかし―――」
「そういうんじゃなくて、お兄さんの話」
「はあ?」
 何だって?
「これも何かの縁っていうかさ。どうせ一晩きりの付き合いなんだし、お兄さんのこと、
話してよ」
「俺のことっていったって・・・」
「こんな人生歩んできました、みたいな」
 少女は床に両手をつき、寝転がったままの俺の顔を見下ろしてきた。「駄目?」とでも
問いかけているようだ。
「・・・つまらないだけだぞ?」
「いいの。聞きたい」
 まったく物好きな少女だ。聞いてから後悔しても知らないからな。
 自分の人生を振り返るなんて、何だか走馬灯みたいだよなと思った。

 別に誇れるような人生は歩んできていない。むしろ聞いた者全員が顔をしかめるような
人生だ。その中のほとんどが俺を軽蔑するだろう。同情する奴もいるかもしれない。
 ごくごく普通の家庭に生まれ、ごくごく普通の両親に育てられた。ただ一つだけ問題だ
ったのは、父親がギャンブル好きだったこと。年々増えていく借金は俺が高校に入学する
頃には五千万を越え、高二の時に母親が疲労が祟って亡くなり、高三の時に父親が全てを
俺に擦り付けて失踪。それからというもの、転落人生まっしぐらだ。高校を中退し、借金
を返す為職を探した。水商売にも手を出したが、とても五千万には届かない。そんな時、
客の一人に誘いを受けたのだ。「短期間で大金を稼げる会社がある」と。その時の俺には
冷静さが欠けていた。上手い話ほど裏があるという当たり前のことをわかっていなかった。
「それがこの会社ってわけね」
「ああ。この会社が何をやってるか知ってるか?違法に人間の臓器の売買を行ってるんだ」
 静音は表情一つ変えず「ふーん」と呟くだけだ。
 何度も逃れようとしたが逃げられないまま現在に至っている。
 毎日毎日降り積もっていくのは罪悪感。もう我慢の限界だった。それが・・・より多く
の臓器を売る為に裏で殺人まで行っていることを知り、爆発したのだ。ほとんど植物状態
の人間や余命幾らもない人間がターゲットだと言うが、そんなことは関係ない。
 壊してやろうと思った。こんな会社も、こんな会社に囚われている自分も全て。それで
ここの存在が世に知れ渡ればいい。あとは警察が罰してくれるだろう。
「・・・お兄さん、ネガティブ」
「うるせえ」
「まあ、あたしも人のこと言えないけど」
 そう言って笑う彼女は少し悲しそうに見えた。もしかしたら・・・彼女も何かに絶望し
ているのだろうか?
「ねえ、人ってどういう時に死にたくなるかわかる?」
「え」
「明日に何の希望も持てなくなった時。だってそれなら生きてたって意味がないもんね」
「・・・お前・・・」
「お兄さんには夢とかあるの?」
 そう問いかけてきた時には一瞬見せた僅かな表情の翳りは消えていた。
 夢・・・と言われても
「そんなの・・・考えたこともない」
「だったら、これから考えられるんだね」 
 静音は曲げた膝に顎を乗せ、どこか焦点の合っていない目で何もない宙を仰ぐ。
「本当の絶望はね。夢も希望も考えられなくなることだよ。明日には何もない。何も望め
ない。本当に・・・死にたくなる」
 彼女の声から感じられたのは、どうしようもない悲しみと生きることへの疲労感。
 どうしてそんな顔をするんだ。
「・・・まったく・・・どっちがネガティブなんだよ」
「うるさいわねっ」
 でも、生きることに絶望したということは必死に生きようとしたということだ。生きて
いるってことだ。
「ちょっと静音。こっち来い」
「はあ?何で・・・」
「いいから、来いよ」
 静音は渋々という様子でこちらに体を寄せてくる。俺は手を伸ばし、彼女の体を抱き寄
せた。
「ちょ・・・っ。何・・・!?」
「・・・辛かったな」
「え・・・」
「でもさ、死ぬのはちょっと待てよ。もしかしたら通りすがりの心優しいお兄さんが、話
くらい聞いてくれるかもしれないぜ?」
「・・・それって誰のこと」
「俺」
 静音の肩が小刻みに震える。
「お人好し」
「お互い様だろ」
 自分の身の上をここまで誰かに話したのは初めてだ。彼女は黙って聞いてくれた。聞き
たいと言ってくれた。随分と心が軽くなったのを感じている。
 だったら今度はこちらの番ではないのか?
 彼女の笑い声はいつしか嗚咽に変わっていた。温かな涙が服を濡らしていく。
 笑ったり、怒ったり、泣いたり。
 彼女は今まで忘れていたことを思い出させてくれる。「生きる」ということを思い出さ
せてくれる。腕の中で震える少女がどうしようもなく愛しく思えて、自分にもこんな感情
がまだ残っていたのかと少し驚いた。本当に、人生というのは最後の最後までどこでどう
なるかわからないものだ。偶然が重なって本当なら絶対に会うことなどなかったはずの少
女とこうやって話していたりするのだ。
「俺さ。何かちょっと思ったんだけど」
「・・・何よ」
「俺が生きる明日にお前みたいな奴がいてくれるなら、生きてみてもいいかなーって」
「な・・・っ」
 少女が顔を上げる。目が赤い上に、頬を真っ赤にして。
「急に何言い出すのよ?お兄さん、こんな所に閉じ込められて頭おかしくなったんじゃな
い?」
「かもな」
 自分でも驚いている。声をあげて笑いたい気分なのだ。泣いたり怒ったりもしてみたい。
当たり前なのにできなかったこと。彼女とならできるような気がする。
「・・・・・・たしも・・・」
「ん?」
「何でもないっ」
 静音はもう一度俺の胸に顔を押し付けてきた。彼女の温もりを感じながら目を閉じる。
 そろそろ、夜も明けるだろうか。

 人の声で目が覚めた。上半身を起こし、二三度瞬きをする。意識がはっきりとしてきた。
 救出が来たのだ。声をかけようとして「あれ?」と思う。誰に。辺りを見まわしても、
ここには誰もいないじゃないか。
「・・・静音・・・?」
 少女の名を呼ぶ。
 夢でも見ていたのだろうか?この胸には確かに温もりが残っているのに。
「静音」
 もう一度呼ぶ。返事はなかった。

 その後、狐に抓まれたような気持ちのまま警察に出頭した。会社のこと、自分のこと、
包み隠さず全て話した。俺は会社にとっては大して重要でもない平社員だったし、自首し
たお陰か、短期間で釈放してもらえた。ビルを崩したことについても幾らかの罰金を払う
ことで解決した。

 警察にいる間、ずっと想っていたのはあの晩の少女のこと。
 彼女はどんな花が好きだろうと何日も頭を悩ませたのだが、結局行き着いたのはチュー
リップだ。笑いたければ笑えばいい。
「お前・・・死にたいんじゃなかったっけ?」
 白いベッドの上。背を向けている少女に声をかける。
 これは事情聴取の時に刑事に聞いた話なのだが。あの晩、同じ場所でもう一つ事件が起
きていたそうだ。ビルの上から一人の少女が飛び下り自殺を計ったらしい。発見されたの
は翌朝で、奇跡的にまだ息のあった彼女はすぐに病院に運ばれ、一命をとりとめたという。
生存できる確率は5%もなかったそうだ。
 少女の名は二ノ宮静音。都内に住む高校一年生。彼女の体にはビルから落ちた時にでき
た傷とは別に、無数の痣や刺し傷が発見されたとテレビは報道していた。現在、彼女の両
親に事情を聞いているらしい。
 少女がゆっくりとこちらを振り返る。まだ傷の跡は痛々しく残っていたが、綺麗な笑顔
を満面に浮かべて。
「あたしね。何かちょっと思ったのよ」
「ん?」
「あたしの生きる明日に、お兄さんみたいな人がいてくれるなら、もう少し生きてみても
いいかな、って」
「何だそりゃ」
 思わず吹き出していた。
「入院生活で頭でもいかれたか?」
「かもね」
 正直、彼女のことはまだ何も知らない。
 でも少しずつ知っていけばいい。これから明日なんていくらでもくるのだから。
 生きている限り、ずっとずっと。

「っていうか、何でチューリップなのよ?もっと気の効いた花はなかったわけ?」
「花というとこれしか思いつかなかったんだ」
「最悪っ」

 静音が何故、あの晩、俺の元に現れたのかはわからない。
 何となく思うことがあって、俺を救おうとしてくれたのだろうか。
 まだ死んではいけない。まだ生きれるはずだ、と。
 彼女自信も本当は生きたいと願っていたのかもしれない。

 明日になれば、また色々な不安や困難が俺を襲うかもしれない。生きている限り、それ
はずっとついてまわるのだろう。まず仕事を探さないといけないし、食を繋ぐ方法も考え
なくてはならない。問題は山積みだ。
 それでも君がいれば
 そうやって笑ってくれていれば

 こんなのは、思い上がりかもしれないけれど。



                                  fin


あとがきのようなもの
以前サイトの日記にちょろっと出したお話です。
サイトアップする気はなかったのですが、書きあがってしまったので公開。
こういう淡々と二人だけの会話で話が進んでいく・・・というのを書いてみたかったんですよ。
あと男女の絡み(笑
ちょっと最近別サイトで男ばっかり書いていたのでたまには・・・と。
五つとかいう微妙な歳の差が好きです。


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